華麗なるロシア、世界遺産紀行9日間

2008年7月28日−8月5日 9日間

クラブツーリズム

 天然ガスや石油に恵まれ、最近絶好調なロシアを15年ぶりに訪れました。ただ、民営化されたガスプロムのトップ経営陣をプーチン前大統領など、共産党の上層部が握っており、我々にとっては、何かと不透明な国ですが、賄賂が日常化し、貧富の格差がますます大きくなりつつあるようです。その上、最近、グルジアにロシアの軍隊が進駐し、軍事行動を行うなど、昔のソ連を思わせるような行動も多くなっています。



大画面スライドショー(文章なし) はここをクリック
  再生速度は右下の三つの点を押すと早くしたり遅くしたりできます。


 今回の旅は、往復ともJALを使用したクラブツーリズムの28名限定、9日間の旅でした。実質は6日間で、モスクワ、およびその周辺に3日間、サンクトペテルブルグに3日間でした。
 参加者は、ご夫婦が8組で、男性が8名、女性が20名でした。



モスクワ、およびその近郊の見学
 

 到着した次の日にモスクワを見学し、次の2日間は、バスでセルギエフポサート、スズダリ、ウラジーミルなど世界遺産のある幾つもの修道院を訪れました。
 スズダリなどの観光地は、最近、急速に海外の人を呼びいれているようで、観光客で賑わっていましたが、観光地としてのインフラや接客態度もだいぶ向上しつつあるようです。
 訪問者数の国別比較では、1番が日本で、2番が台湾だそうです。なぜそのように日本人が多いのか分かりませんが、日本の旅行業者がいろいろと努力しているのでしょう

 


            おもな見学先                   宿泊地
1日目 成田からモスクワへ モスクワ
2日目 モスクワ市内見学(赤の広場、武器庫(宝物館) モスクワ
3日目 AM:セルギエフ・ポサート見学 PM:スズダリ見学 スズダリ
4日目 スズダリ、ウラジーミル見学、夜、サンクト・ペテグルブルグ サンクトペテグブルグ
5日目 サンクト・ペテグブルグ市内見学 サンクトペテグブルグ
6日目 エルミタージュ美術館見学(終日) サンクトペテグブルグ
7日目 AM:ピョートル大帝の夏の宮殿(庭園)見学、PM:エカテリーナ宮殿見学 サンクトペテグブルグ
8日目 AM:自由時間、午後、モスクワ経由成田へ
9日目 成田到着



           
1日目 成田からモスクワへ

モスクワ、ドモジェドボ空港

 朝、成田に集合ですが、前回の失敗を反省し、早めにいってクラブツーリズムのカウンターに並び、航空券を手にし、JALのカウンターに行き、座席を指定してもらいました。早かったためか、通路側の並びの席を手にすることが出来ました。
 11:05分成田発、16:10モスクワ着で10時間の飛行でした。
 到着すると、現地の女性のガイドさんが待っており、今日を含め4日間、このガイドさんが案内します。空港に着くと、まず目につくのがロシア文字です。33文字あるそうですが、半分ぐらいはアルファベットに似ていますが、まったく読めません。街中では、英語の併記はほとんどなく、閉ざされていた国の面影を残しています。
 この空港は1964年に開港し、最近はだいぶ近代的な設備になっています。成田へ帰るときの手荷物検査で、人の検査は大きな箱の中を通り、帽子もカメラも靴もすべて付けたままで通過することができました。初めての経験でした。

 

 今日はそのままホテルに直行し、夕食は出ないとのこと、成田で買ったおにぎりで間に合わせました。
 モスクワの渋滞はものすごいと脅かされましたが、確か、空港からホテルまで3時間かかりました。最も東京も同じであまり酷いなどとは言えませんが。

 ロシアの国土は、アメリカ、カナダ、中国などの2倍もあり、圧倒的に世界一で、日本の45倍もあります。人口は1億4200万人と日本のわずか1.1倍です。
 空港から市内に向かう道の両側は、平地であるにもかかわらず、白樺が生い茂っています。もっとも、緯度は北海道よりもはるかに北で、夏とはいえ、セーターやジャンバーを着ており、農地があるものの、それほど耕作に適しているとは思われません。
 現在、地球規模での温暖化が大きな問題になっていますが、資源国ロシアにとって、気温の上昇は追い風になるかもしれません。日本でも、北海道で稲作が可能になると言われていますが、永久凍土を有するシベリアでの資源開発がもたらす恩恵には想像以上のものがあると思われます。
 現在、石油の輸出量はサウジアラビアに続き世界第2位で、最近の原油の値上がりで、だいぶ経済状態は上向いているようです。 
 バスのガイドさんによる話ですが、旧ソ連時代は、共産党による計画経済で、職業や住居も上からの指示で決まっていていましたが、今は土地や住居が払い下げられ、その代り、収入は本人の努力次第で、能力のない人の収入は激減しているそうです。特にひどいのは老人で、年金は急減し、何らかの仕事をする必要がありますが、かなりの低賃金だそうです。ただし、今の若い人にとって、昔に戻るということは考えられないそうです。
 ロシアの現在の問題は、役人や警察などの不正がひどく、最近放映されたBSドキュメントによると、警官の給料は安く、その上、毎日、捕まえる人数にノルマがあり、その場でお金を払えば釈放されますが、お金がないと連行され、簡単な万引きでも、数年間、監獄に閉じ込められるそうです。マフィアなどの幹部は、政権との癒着により逮捕されることはないそうです。 



       
2日目 モスクワ市内見学

7月29日(火)

 宿泊は29階建ての大きなホテルで、同じような大きさのホテルが左右に合計5つもありました。これらのホテルは、モスクワオリンピックの選手村として使用されたそうです。ホテル内にインターネットカフェがあり、10台弱のパソコンが置いてありました。なお、無線ランを各部屋で使用できますが、接続時間の合計が1時間までで約1000円でした。ホテル内に両替え所がありましたが、交換できる紙幣はアメリカドル、ユーロ、ポンドの3種類で、日本円は使用できませんでした。1US$=21.85ルーブルでしたので、1ルーブル=がちょうど5円でした。
 ホテルの近くに大きなアミューズメントセンターと青空市場があり、朝早く、歩いてみました。24時間オープンのスーパーマーケットがあり、そこで水などを買いましたが、ホテルの近くに寿司バーもありました。モスクワにはたくさんの日本食堂があり、スーパーでは、お寿司も売っていました。



赤の広場
 モスクワには立派な地下鉄もありますが、まだ、市電も走っています。道路には車があふれて、約2,3割が日本車です。ものすごく古い日本車にも会うことができます。
 いよいよ、市内見学ですが、モスクワの中心にある赤の広場からスタートです。
 赤の広場というと、共産党をイメージしますが、ロシア語で美しいという意味だそうです。15世紀ごろ、市場として作られ、17世紀ごりに今の広場になったそうです。
 聖ワシリイ大聖堂を右手に見ると、この広場の左側にはクレムリンがあり、右手にグーム百貨店が、遠方に国立博物館が見えます。
 旧ソ連時代、クレムリンは秘密のベールの覆われ、共産党幹部がクレムリンの壇上に並び、広場ではミサイルや戦車のパレードを思い出します。



聖ワシリイ大聖堂

 NHKのモスクワ支局員が放送するとき、その後ろにはこの大聖堂が映されます。モスクワを代表する建物です。バスの駐車場から赤の広場に登っていくと初めに目にするのがこの建物で、モスクワに来たことを実感できます。
 この大聖堂は、1560年頃、ロシア皇帝、イヴァン4世が建築したもので、ロシア正教会の大聖堂です。ロシアの聖堂の中でも、最も美しい建物の一つと言われます。
 外観はたびたび塗り替えられているそうで、その美しい姿が浮きあがって見えます。
 聖堂の中は、教会でなく、現在は国立博物館の一部として使用されているそうです。
     



クレムリンとレーニン廟

 クレムリンとはロシア語で城塞を意味し、多くの都市の中心にクレムリンがあります。旧ロシア帝国の時代は宮殿として、旧ソ連時代はソ連共産党の中枢が置かれ、現在はロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれています。
 その中央にレーニン廟があり、ウラジーミル・レーニン(1924年没)の遺体が安置され、多くの人が訪れていました。以前、レーニン・スターリン廟と言われた時もあり、スターリンもレーニンと並び安置されていましたが、1961年、スターリンの遺体がそこから出され、クレムリンの壁に埋葬され、その銅像が立っています。



国立歴史博物館

 ロシア第一の国立歴史博物館で、ロシアを代表する建築とも言われます。内部には入りませんでした。



グーム百貨店

 これが百貨店だとはびっくりでした。パリのルーブルのような建物です。内部に入ると、洋服や靴など、かなりの高級商品が売られていて、お客はもっぱらモスクワの富裕層だそうです。北京オリンピック直前で、選手たちの応援グッズも置いてありました。



船上のピョートル大帝

 モスクワ川の中に立つピョートル大帝の記念碑です。
 ロマノフ朝の第5代目皇帝、ピョートル1世(ピョートル大帝)は、西洋化、近代化を進め、1689年、ロシア海軍を創設し、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保しています。1697年にはヨーロッパの軍事や科学技術を学ぶため、総勢250名の使節団を結成し、自らもその一員として18か月の視察旅行に看過しています。時には身分を隠し、見習工としてハンマーをふるったとも言われていますが、その長身ゆえに見破られてしまったそうです。
 ちなみに、サンクトペテルブルグは「聖ペテロの街」を意味し、ペテロとはピョートルに当たるロシア語名で、大帝が自分の名を付けたと言われています。



雀が丘

 小高い丘にある展望台で、後ろにはモスクワ大学があります。以前この地を訪れた時は、たくさんのお店屋さんがここに並び、お土産や、共産党のパスポートまで売っていました。今はそれが取り払われ全くありません。だいぶ変わったものです。眼下にはサッカー場が見え、町は新築ラッシュで活況を呈しています。
 後ろにあるモスクワ大学は、先のとがったスターリン様式をしており、由緒あるいろいろな建物にこの様式を見ることが出来ます。スターリンが、ニューヨーク1のエンパイヤーステートビルデングを超える建物を作れと命じて作らせたとのことです。



ノヴォデヴィッチ修道院(世界遺産) NOVODEVICHIY CONVENT 

 16世紀に作られた女子修道院で、その後、クレムリンの出城となり、堅牢な城塞に囲まれています。チャイコフスキーがここで白鳥の湖の着想を得たと伝えられているそうです。



お土産屋

 今回はモスクワとサンクトペテルブルグでの計2回、お土産屋へ立ち寄りました。いずれも観光バス専用のお土産屋と思われます。ロシア独特のお土産が置いてありました。



武器庫 (宝物館、宝石コレクション)見学

 この武器庫は大変人気があるらしく、私たちの前後も長い列です。クレムリンの一角にあります。
 このとき気づいたのですが、後ろの列は、大きな番号札を持っており、どうも、大きな団体のようです。私たち、28名の団体旅行でも、ガイドさんが説明をすると、その周りに人が集まり、どうも、息苦しくなります。ただし、ちょっとそこから離れると、嘘のように人がまばらになります。美術館では良く経験する出来事です。すなわち、船旅のような大きな集団で見学して歩くと、いつも、どこへ行っても混雑しているような錯覚に陥ると思います。将来、もし、観光船によるツアーがあったとすると、よく考える必要があると思いました。
 この武器宮殿は、通常、武器庫とも呼ばれていますが、ルーブル美術館のなかの一角を思わせます。戦利品やロマノフ家の宝物が保管されています。陳列品は、武具・武器、織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などで、エカテリーナ2世の結婚衣装や、その後のいろいろな衣装も飾られています。
 それら幾つかの部屋に続いて、歴代皇帝の宝石のコレクションの部屋が2つあります。武器庫、宝石館、いずれも撮影禁止でした。私語も控え、静かに見学するようにとの注意がありました。
 この武器庫を見ただけでも、モスクワに来た価値があったと思いました。立派な美術館です。



1993年9月 モスクワ訪問時の写真

 1991年、ソ連が解体し、ロシア連邦が誕生しましたが、モノ不足は深刻で、その上、インフレの進行がものすごく速く、10日間の滞在でも、そのレートがかなり変わってしまうほどでした。
 市民はドルを欲しがり、我々は安い買い物を楽しめました。ロシアの人たちは一生懸命ドルを買い求め、タンス預金をしていましたが、アメリカはお札を刷ればロシアから物を買うことが出来て、羨ましい事だと、つくづく感じたのを覚えています。
 当時、泥棒が多く、車のワイパーは盗まれてしまうので、駐車するときは、皆さん、ワイパーをはずしていました。今では考えられない時代でした。
 良く思い出せませんが、1枚目の写真は青空市場で、その後ろに、今、我々が泊っているホテルが映っています。ここまでは、地下鉄で行ったのを覚えていますので、たぶん間違いないと思います。今の青空市場は、明日の朝の写真にあるように、ものすごく大きく広くなっています。(当時の数百倍はありそうです。)
 6枚目の写真は、明らかに雀が丘の風景です。ここには現地の人が連れて行ってくれました。



         
3日目 黄金の環、観光

 モスクワ観光も昨日で終わり、今日は、バスでセルギエフ・ポサートに行き、そこで観光です。その後、さらにスズダリまで行きそこで泊まります。
 これらモスクワの東にある古い都市は、11世紀から15世紀末にイワン雷帝が各地を征服するまで、ロシア諸国の首都として栄華して来ました。そこにはクレムリン(城塞)、修道院、大聖堂、教会をなどがたくさんあり、「黄金の環」と呼ばれています。
 ソ連崩壊後は外国人向けの観光地として設備や人材の教育など、積極的に観光地化が進められているそうです。


ホテルの近くの青空市場

 朝食前に近くを散歩しようと歩いていたら、大きな市場がありました。後で調べたら、青空市場と言うそうです。
 まだ、6時だというのに、店をあける人たちで大変賑わっていました。トルコのバザールなどに比べると、青空と言われるように、建物などはまだまだお粗末ですが、その広さは相当なものです。荷物を持って出勤する人たちの写真を撮っていたら、警官風の人に制止されました。列車を撮影すると刑務所行きだったソ連時代のなごりなのでそう。権力を持っている人は、何かとそれを行使したくなるようです。



トロイツェ・セルギエフ大修道院(世界遺産) セルギエフ・ポサート

 モスクワの東、約90kmのところに、セルギエフ・ポサート市があります。バスで約1時間半でした。この修道院はロシア正教会におけるもっとも重要な修道院の一つで、14世紀から15世紀にかけ、その基礎が作くられています。
 この修道院は、周囲に12基の塔をもち、1.5kmの石壁で囲まれています。
 ピョートル大帝が政敵からこの修道院に逃れてきたなどの歴史的出来事もあり、皇帝宮殿も備えられています。
 トロイツキー大聖堂で1422年から1423年にかけ建設されています。この大聖堂の中心をなす修道院です。



 ウスペンスキー聖堂(生神女就寝聖堂)です。

 

 聖神 聖堂  1476年建設

 ダックタワー (Duck Tower)  1650年に建設


 4つの修道院でのお祈りは時間によって区切られており、ある修道院では、熱心な信者たちがお祈りを捧げておりました。お祈りのない修道院では、写真を撮ることができました。美しい修道院でした。



スカーフをかぶった女性たち

 この街では、至る所で女性のスカーフが目に付きます。映画「ドクトル・ジバゴ」の中で現れる女性たちを思い出します。このスカーフは、モスクワやサンクトペテグブルグでは全く見ることが出来ませんでした。わずか、70kmしか離れていない街で、このような大きな変化を感じることができるのもロシアの都市化の影響なのでしょうか。



バスが立ち寄った有料トイレ

 スズダリはセルギエフサポートのさらに東、180km(モスクワの東250km)にあり、そこまでバスで約3時間かかりました。途中、トイレ休憩ですが、ここはガソリンスタンドではなく、トイレ専門です。ただし、非常にきれいなトイレで、ちょっとしたコーヒースタンドも付いていました。
 一般にロシアでは、ホテルやレストランなどを除き、トイレは有料でした。だいたい、10ルーブルないし15ルーブルが必要です。



スズダリの町に到着(世界遺産)

 スズダリの人口は約1万人と、町というよりは村といった感じです。古代から中世の教会、修道院などの建築物が多数点在する美しい観光都市です。この町には小川や牧草地がたくさんあり、その田園風景を描いた有名な絵がたくさんあるそうで、ロシア中から絵を学ぶため、この地に留学している人も多いそうで、時々、スケッチをしている人たちを見かけました。
 スズダリと、ウラジーミルの白亜の建造物群は1992年、世界遺産に登録されています。

 バスがスズダリに到着したときに見た、町の一風景です。
 このような教会や修道院がたくさん点在しています。



スパソ・エフフィミエフ修道院
 町の北端にあり、今日のホテルから一番近い修道院で、14世紀に建てられ、立派な壁で囲われています。壁の長さは1.2kmもあり、エカテリーナ2世の時代は、政治犯や宗教異端者の監獄としても使用されたとのことです。
 もっとも、当時、修道院送りとは一生帰れぬ監獄行きも意味したそうです。
 修道院の中には、お花畑や薬草畑があり、幾種類もの鐘で音楽を奏でる釣鐘どうもありました。



夕食を個人宅で
        

 夕食はこの地方の一軒の個人宅でした。旅行業者が契約しているのでしょうが、この街は観光業として生計を立てている人が多いのでしょう。立派な家がたくさんありました。

 モスクワやこの辺の天気は良く変わります。ガイドさんはバスを降りるとき、晴れていても、雨傘を持って出るようにと、注意をかけます。真上は晴れていてもちょっと遠くは雨が降っています。ですから、モスクワっ子は何時も手傘を手離せないそうです。ホテルの向こうは雨なのでしょう。立派な虹が出ていました。そういえばドイツの片田舎でも虹を見たことを思い出しました。
 このホテルでもインタネットを使用出来ましたが、なんと1時間2000円もします。今日は諦めました。



        
4日目 スズダリとウラジーミルの市内観光(世界遺産)

 今日はスズダリとウラジーミルの市内を観光し、夜の便でサンクトペテグブルグへ向かいます。同じような修道院をいくつも見ると、だんだんと区別が付かなくなってきます。



朝食前に散歩

 今日も朝食前に1時間ほど散歩をしました。スズダリの街は全体でも4km四方程度で、1日もあれば全部徒歩で十分歩けそうです。昨日見学したスパソ・エフフィミエフミエフ修道院の長い壁が良く見えます。
 しばらく歩くと、ボクロフスキー修道院に出ました。まだ朝早く、誰も歩いていませんでした。



リバパラジェーンスキー修道院

 13世紀初めに創設されましたが、釣鐘はナポレオンに勝った戦争記念碑で72mの高さを有しスーズダリでは一番高い塔だそうです。二つのテント風の屋根を頂く17世紀の聖なる門が特に有名だそうです。



木造建築博物館

 スズダリの南の端にあり、スーズダリ近郊の村から移築して来たそうで、二つの教会や風車、水車などが保存されていました。楽器を奏で美しい歌声を聴かせている二人がいて、そのCDを売っていました。



クレムリン
 木造建築博物館から小川を渡るとクレムリンに出ます。そこまで歩いてゆきましたが、美しい田園風けに出会いました。のどかな風景です。


 小川を渡り、クレムリンの後ろ側から入って行きました。表側には広場があり、お土産屋や野菜、果物などを売っていました。このクレムリンは11世紀に建築され、中心にある聖堂はスーズダリで最も古く、13世紀に建築されたそうです。内部には入りませんでした。
 ぶどうを一袋買おうとしたら、1000円でした。多すぎるので、半分でよいと言ったのですが、半分では売らないと言われました。(言葉は通じませんが、たぶんそうだと思います) こちらの人は融通が利かないようです。習慣なのでしょうか、売ってやるという雰囲気でした。買うのを止めました。



ウラジーミル観光(世界遺産)

 ウラジーミルはモスクワの東、約170kmのところにあり、黄金の環を代表とする歴史的街で、シベリア鉄道も走っています。この町には、12世紀ごろが全盛期で、市内にはたくさんの白い建築群が作られたそうです。ただ、13世紀になると、モンゴル軍により町は破壊されてしまったそうです。




黄金の門

 12世紀の中頃に作られた門で、モンゴル軍を防止しようとして作られました。当時、城壁には5つの門がありましたが、現存するのはこの門だけだそうです。
 門の上には教会がありましたが、現在は戦争の歴史に関する展示室だそうです。




ウスペンスキー大聖堂

 14世紀初めまではロシアの大聖堂の最高位にあった歴史的教会だそうです。5つの黄金の丸屋根を持っています。壁は白石で作られています。丘からはウラジーミルの街を見下ろせ、シベリア鉄道も走っています。ただ、目に見える鉄道はシベリア鉄道ではなく、現在は多少離れたところを走っているそうです。
 お孫さんを連れた軍人風の老人が歩いていました。記念に一緒に写真を撮りました。昔のよき時代を懐かしんでいるのでしょうか。



モスクワのスーパーマーケット
 今日は夜10時発の飛行機でモスクワからサンクトペテグブルグへ向かいます。モスクワの大渋滞も幸いそれほどひどくなく、早めに空港近くに到着したので、トイレ休憩を兼ね、スーパーマーケットで1時間ほど時間つぶしをしました。ここでのトイレは無料で奇麗でした。
 非常に広い駐車場があり、スーパーマーケット以外に、日本のショッピングモールのようないろいろなお店も入っていました。アメリカのウォールマートとほとんど同じで、何でも売っています。
  大きなテレビや冷蔵庫など、日本の家電以上です。お寿司も売っていました。大変混雑していましたが、この10年での変わりようは、中国と同じようです。
 写真を撮っていたら、スーパーのガードマンに、だめだと制止されました。ここでも、昔風です。もっとも、日本でも、スーパーの中で写真を撮っていると怪しまれるかもしれません。でも、仮に外人が銀座の三越で写真を撮っても、だれも何とも思わないでしょう。
 
 夜10時発のサンクトペテグブルグへ行きの飛行機はキャンセルとなり、11時のに乗ることになりました。乗客が少ないと時々キャンセルになるそうです。我々が合流した11時発の飛行機も、乗車率60%ぐらいで、かなり空席が目立ちました。
 結局、ホテルに到着し、部屋に入ったのは午前2時ごろでした。



     
5日目 サンクトペテルブルグ市内見学

ホテルから望む市内風景

 昨夜遅く到着したこともあって今日の朝はゆっくりで、その上、同じホテル(Azimuth Hotel) に4泊です。有り難いことに、このホテルのインターネットは無料でした。部屋は15階で見晴らしは最高でした。遠くにイサク聖堂が見えます。


 今日から現地のガイドさんが変わり、今度は名古屋万博で日本に1年いたことがある美しい女性です。その上、知性が非常に高く、正確な日本語をかなりの速さで話します。一般の日本人よりも早口です。
 サンクトペテグブルグは一時、レーニンの名を取り、レニングラードとも呼ばれましたが、現在は元に戻り、サンクトペテグブルグと呼ばれています。
 レニングラードと言えば、第二次世界大戦でのナチドイツと戦ったレニングラード攻防戦が思い出されます。ドイツ軍が町の周辺まで攻めて来ていましたが、サンクトペテグブルグの男性たちは兵隊に出て行ってしまい、町の中に残った老人と女性、子供たちで、ナチドイツ軍と戦ったそうです。電気、水道、外部との交通などが遮断され、食料は底をつき、約、6割、70万人の人が飢えと寒さのために死んだそうです。それでも終戦まで戦い抜いたそうです。
 この地は300年前までは、何もない海岸の沼地だったそうですが、ピョートル大帝がバルト海に面するこの地に新しい都市を作り上げました。
 現在は、ロシアの中でも開放的で文化芸術の町として、海外からも数多くの訪問客で賑わっています。沼地を開墾して作り上げたこの街の中心には広いネヴァ川が流れ、その他数多くの水路が走っています。
 フィンランドとは陸続きで、ヘルシンキはモスクワの半分の距離にあり、多くの人がヘルシンキに遊びに出かけるそうです。 



ロストラの灯台

 今日の観光はロストラの灯台から始まりました。この灯台は、ヴァシリエフスキー島の入口に2つ、がっちりと立っています。1810年に建てられ、高さは32mあります。
 この島には12学院、科学アカデミー、芸実アカデミーなどが置かれ、幾つもの博物館もあるそうです。下の2枚目の写真は動物学博物館で、その中に、冷凍されたマンモスが置いてあり、誰でも見ることができるそうです。でも、ロシア人には人気がなく、入場する人はあまり居ないそうです。ガイドさんが名古屋万博に来た時、なぜ、日本人は長い行列を作り、長い時間をかけて冷凍マンモスを見るのか、理解できなかったそうです。確かに納得ですが、エルミタージュ美術館の1枚の絵でも日本に来れば大騒ぎになり、長い列を作るのは必定ですから、理解してもらうのは難しいかもしれません。
 この灯台からは対岸にエルミタージュ美術館が見えます。観光地なのでしょうか、着飾った人たちが、写真撮影用に立っていました。遠くから撮らせていただきました。



巡洋艦オーロラ号

 ペテルブルグの入江にもう一つの、ペトロぐラード側と呼ばれる島があり、その島には動物園やプラネタリウム、劇場などがあり、大きな公園もあります。そこに、巡洋艦オーロラ号が繋がれています。
 この船は1900年に建設されましたが、バルチック艦隊の一隻で日露戦争に参戦し日本海まで出撃し戻ってきたものだそうです。日露戦争で活躍した船で現存するのはこの船と、横須賀にある旗艦三笠の2隻のみだそうです。
 1917年11月、(10月革命)、この船からエルミタージュの冬宮に向かって一発の大砲が放たれ、それがロシア革命の始まりの合図でした。後にニコライ2世とその家族は捕えられ、全員が銃殺され、300年続いたロマノフ王朝は閉じることになります。
 ここでも、船にペンキを塗っているのを見かけましたが、いろいろな所で修復作業をしていますした。景気が良くなった証拠なのでしょう。観光客をたくさん呼ぼうとしているようにも見えます。



血の上の教会

 1881年のテロリストによる反乱でアレクサンドル2世がここで殺害されたことから、こう呼ばれています。この教会は、それを悼み、1883年から建設が始まり、完成まで25年かかったそうです。純ロシア風で、モスクワの聖ワシリイ大聖堂に似ています。このような教会は、サンクトペテグブルグでは珍しいそうです。中のモザイク画の数は、たぶん世界一だそうです。



青銅の騎士像

 エカテリーナ2世が1782年に作らせた、ピョートル大帝像で、花崗岩の台座には「エカテリーナ2世からピョートル大帝へ」と書いてあるそうです。この像はデカブリスト広場にあり、結婚式を挙げたグループが記念写真を撮っていました。
 



聖イサク聖堂

 高さ101.5mと市内随一の高さを誇り、金色の大きなドームが輝き、サンクトペテグブルグを代表する聖堂です。第1代めの聖堂は1858年に完成していますが、もともと湿地帯であるこの地に、このように大きく重い建物を作るため、その基礎工事は困難を極めたとのことです。現在の聖堂は4代目ですが、合計112本の花崗岩の円柱が使われています。どのようしてそのような思い円柱を立ち上げたかの模型が聖堂内に飾ってありました。
 内部を見学後、展望台まで登ってみました。市内全体を見渡すことが出来ます。



運河クルーズ

 私たちのグループだけのクルーズがありました。橋のすぐ下を通るので、頭をすくめていないと危険です。
船からは、エルミタージュ美術館やペテロバヴロフスク要塞の中にある、122mの細長く高い鐘楼が見えます。
 遠くにイスラムのモスクの屋根が見えます。ガイドさんの話によると、信者以外は入れないので、入ったことが無いそうです。



スモーリヌイ
 18世紀に女帝エリザヴェータが女子教育の場として修道院を開いたが、19世紀に新校舎が完成し、主に貴族の令嬢たちの教育の場として使用されてきています。
 1917年10月の10月革命では、レーニンを中心とする革命本部がここに置かれ、10月25日にソビエト政権樹立宣言がここで行われ、翌1918年に首都がモスクワに移されるまで、ソビエト政府の中心になっていました。
 ここでも結婚式を挙げた人たちが記念写真を撮っていました。



エルミタージュ劇場 バレエ「ジゼル」鑑賞

 エルミタージュ美術館の隣にエルミタージュ劇場があります。そこでバレエ「ジゼル」が上演されるとのこと、観劇に行きました。開演は8時ですが、全席自由席とのこと、良い席を獲得しようと、我々のグループは7時に到着です。
 この劇場の特徴は全席でも250しかなく、しかも、昔からの習わしで、自由席になっていることです。我々が一番乗りで、まだ、誰もいません。どこに座ったらよいのかもよく分かりません。いろいろな所に座ってみた結果、今まで経験できなかった一番前の席が良いだろうと判断して、座ってみました。ただ、一番前は少し低いのでその後ろの2番目の並びの一番中央の席に座りました。少し座って待っていても誰も入場して来ないので、私たちだけのためにバレエが上演されるのか心配になりましたが、開演20分ぐらい前には、完全満席でした。すく近くでバレエを鑑賞できて、結果的には最高の場所だったと思います。旅行社に支払った料金は一人19,800円でした。楽団の人員はオーケストラ30名、バレエ30名として合計60名ですので、どのようにして採算を維持するのか、心配にもなりました。
 下のバレエの写真はアンコール時のものです。パリのオペラ座で観劇した時は、あまりにも広く、上演途中で写真を撮っても、誰も全く気にしませんが、この広さでは、さすがにだれも写真を撮る人は居ませんでした。



白夜

 バレエが終わったのは夜の10時を過ぎていましたが、外に出ると、ちょうど日が沈む時でした。美しい夕焼けです。モスクワ川の中から噴水が上がっていました。
 ホテルの部屋に戻ると、花火が上がっていました。



         
6日目 エルミタージュ美術館(終日)


宮殿広場

 エルミタージュ美術館に面し、宮殿広場が広がっています。サンクトペテグブルグの中心となる宮殿広場があります。広場の中央にはアレクサンドルの円柱が建っており、1812年、ナポレオンとの戦争に勝ったアレクサンドル1世を記念して建てられたもので、高さが47.5mあり、一枚岩の花崗岩でできており、直径は約4mで、何の支えもなく、自重だけで立っていると言われています。

 この美術館は、世界の5大美術館のひとつで、今まで行った事がない唯一の美術館であり、是非行ってみたいと思っていました。緑の壁に白い柱、そして、金の装飾に飾られた美しい建物で、昨日もネバ川越しに見ることが出来ました。正面はちょうど修復中で、布で覆われていました。
 今日は10時から4時まで、6時間の見学です。そのうちのガイドさんによる案内は4時間でした。
 この美術館は、主要建築である「冬宮」とそれと通路で結ばれた3つの建物と昨日行った劇場からなっています。
 冬宮は女帝エリザヴェータが建設を命じ、エカテリーナ2世がその後を引き継ぎ、絵画だけでもヨーロッパから4000点以上も買い集めたと言われます。  その後も、継続して美術品が収集され、絵画、彫像、陶器などのコレクションは300万点以上あると言われます。部屋の数は400もあり、それらには一流の美術品が陳列され、全部見るのは不可能です。



大使の階段

 美術館に入ると、すぐにこの階段に出会います。この冬宮が18世紀半ばからロシア皇帝の住居であり、その豪華さに驚かされます。



黄金の客間など

 美術館は混んでいるようで混んでいません。確かに混んではいましたが、ほとんどのグループはガイドさんに連れられて歩いていました。したがって、ガイドさんが居るところは大変混んでいますが、それが去ってしまうとガラガラになる時があります。ガイドさんと一緒に居ると、何時も混んでいる印象を受けますが、イヤホンで聞いているので近くにいる必要はありません。離れて聞いた方が快適です。



1812年の祖国戦争の画廊

 ナポレオンと戦い勝利したピョートル大帝の騎士像と、その周りに、その戦争に参加し、亡くなったたくさんの人の顔が描かれています。当時写真はありませんでしたから、絵師が、話を聞いて描いたそうです。すべての絵の下に名前が刻まれています。




 その他、いろいろな部屋を通りました。



ラファエルロの回廊




ピョートル大帝の間



アレクサンドル・ネフスキーの銀製の霊廟



孔雀からくり時計




大王座の間



エジプト・ギリシャ部門



ひどい照明設備

 美術館に入ってしばらくすると、絵画部門に入りますが、その照明設備の悪さに驚きます。絵を覆うガラスから光が反射し、絵そのものがよく見えません。良い写真が撮れないのなら我慢もしますが、とにかく、良く見えないのですから、イライラします。



レオナルド・ダ・ヴィンチ

リッタのマドンナ(聖母)とブノア(ベヌア)のマドンナ(聖母)

 有名な絵なので、分厚いガラスで、しっかりと守られていました。
 ここでも、外部の光がガラス表面で反射し、絵の鑑賞とはとても言えない環境でした。



 画像があまりにも悪いので、インターネットからダウンロードしてみました。 


オーギュスト・ルノワール


黒い服を着た婦人 1876年

 黒の魅力を知り尽くしたルノワールは、黒を巧みに使用したモデル画をたくさん描いています。

若い女性の頭  1876年

  女優ジャンヌ・サマリの肖像 1878年

開演前の緊張した姿を良く描き出しています。


扇を持った少女  1881年
玩具の鞭を持った少女  1885年



アンリ・マチス

マッチダンス(1911年)、他



アンリ・ルッソー

左:ルクセンブルグ公園 ショパンの銅像 1909年



カミーユ・ピサロ

パリのモンマルトルの並木道 1897年



パブロ・ピカソ

「アプサンドを飲む女」  1901年

 アプサンドは苦みのある強いお酒で、酒場でこのお酒を飲む女性は、生活に疲れているようです。
「友情」  1907-1908年

二人の女性が描かれているようです。
若い女性 1909年



ポール・ゴーギャン



ヴィンセント・ファン・ゴッホ


あばら屋 1890年



ポール・シニャック

マルセイユ湾



ポール・セザンヌ



         
7日目 ピョートル大帝の夏の宮殿と
          エカテリーナ宮殿(世界遺産)

 今日はサンクトペテグブルグ郊外の二つの世界遺産を訪ねます。いずれも、驚くほどの素晴らしい遺産でした。



白夜の日の出

ホテルから見た朝焼けです。5時半ごろ日が出てきます。



ピョートル大帝の夏の宮殿の庭園 ペテルゴーフ(世界遺産)

 ピョートル大帝はサンクトペテグブルグの町を作りましたが、その近郊にこの豪華な夏の宮殿を作っています。この宮殿はサンクトペテグブルグの西南30kmのところにあり、高台の宮殿から海を直接見降ろせるように設計されています。今日は残念ながら、結構強い雨で、傘をさしながらの見学です。到着してしばらく見学していると、今まで停止していた噴水が噴き出し始めました。この庭園の特徴はこの素晴らしい噴水にあります。
 池の中央にあるのがサムソン像は1734年に作られ、20mもの噴水を吹きあげます。この階段に作られた大滝だけで、金箔がはられた銅像が37体、64の噴水、142個の水に噴き出し口があります。なんと素晴らしい噴水群でしょう。噴水の吹き上げは落差だけを利用し、それ以外の動力は使用していないそうです。
 ただし、この噴水も夏だけで、秋になると凍ってしまうそうです。真夏でもセーターが必要な地域で、冬になると海も凍ってしまいますから、夏の宮殿と呼ぶのでしょう。
 これらの宮殿や噴水は、第二次世界大戦で、ドイツ軍によりほとんど破壊されてしまいましたが、現在は、ほぼ完全に修復されたそうです。


 階段を下りると、広い公園が続き、その中には150もの噴水があります。その中にはいたずら噴水などもあり、人が通ると噴水が噴き出したり、大きな傘の形をした中に入ると、周りから雨が噴き出すようなものもありました。



エカテリーナ宮殿(世界遺産)と琥珀の間

 この宮殿はサンクトペテグブルグの南、25kmの所にあります。琥珀の間がとくに有名です。
 1724年、ピョートル大帝はその妃、エカテリーナ1世のために建設しました。その後、女帝エリザベータが大改築を行い、さらにその後の女帝エカテリーナ2世が改築を行っています。青と白の色を使用し涼しい雰囲気をかもし出すロシアバロック様式です。
 前庭に入ると、まずは両翼に広がった宮殿の大きさに驚きます。


 宮殿は大広間やそれに続く幾つもの小さな部屋があります。いずれの部屋にも名前が付けられていますが、とても覚えきれません。
 大広間には、金色の彫刻と大きな窓、磨かれた床、美しい絵が描かれた天井、まばゆいばかりとはこのことを言うのでしょう。それに続く小部屋の中の一つに琥珀の間があります。その部屋だけ撮影禁止なので、下の写真には入っていません。


 宮殿の出口の廊下に、下の絵が飾ってありました。この宮殿は第二次世界大戦中、ドイツ軍によりほとんどが燃やされ、琥珀の間は持ち去られてしまい、現在、行方不明だそうです。琥珀は松脂で出来ているので、燃えてしまったのだろうという話もあります。
 この琥珀の間は2003年に完全復元され、お披露目の式典も行われました。当時と全く変わらぬ方法で作られているそうです。指輪の琥珀一枚でもかなり高価なのですが、部屋全体が大きな琥珀で覆われています。ただ、この部屋にあまり長時間いると、何か、圧迫感を感じます。見て驚き、少し経って部屋を出てゆくのが良い感じでした。



      
8日目 午前中 自由市内見学。午後モスクワ経由成田へ。

 今日はサンクトペテグブルグ発14:15、モスクワ到着15:30で、モスクワからはJAL442便で18:00発、成田は翌日の朝、8:25着です。
 ホテル出発は11:00なので、それまで、市内を見学しました。


 朝食後、出発までホテルの近くを歩いてみました。下の2枚目の写真は、そのうち、人が来て店を開くのでしょうか、道路に置いてありました。4枚目の写真は二コリスキー聖堂の釣鐘です。教会に入ってみると、たくさんの人がお祈り中でした。バスのガイドさんから、以前、教会に入るとき、男性は帽子を脱ぐこと、お祈りをしている人たちの写真は撮らないことなどの説明がありました。


 200年以上もの歴史を持つマリインスキー劇場で、オペラやバレーが上演されます。モスクワのボリショイ劇場と肩を並べ世界的にも有名です。マリインスキーは当時の皇帝、アレクサンドル2世の妃の名前から取られています。道を挟んで、グリンカの像が立っています。


 ホテル近くの名もない教会です。このような教会は幾らでもあります。日本のお寺よりはずっと密度が高そうです。日本でお寺を利用するのは、お参りや葬儀などですが、こちらでは、日常、多くの人が利用しているのでしょう。


 サンクトペテグブルグでは、地下にお店があります。寒さや雪を考慮してなのでしょう。スーパーへ入るにもこのような階段を下ります。



 モスクワ空港の近くです。広大な平地が続き、畑と白樺林と思われる森林がまだら模様に続いています。開墾すれば幾らでも畑が作れそうです。
 ただ、これと同じような風景は北海道でも見られます。やはり寒さは農作物には適さないのでしょう。冬の大半は雪に覆われ、土地は痩せていて、牧畜が精いっぱいかもしれません。
 もっとも、ロシアは世界一広く、グルジア近くの南方まで領土にしていますから、穀物に心配はないでしょう。 



 モスクワでは乗り換えに2時間30分の余裕が有ったにもかかわらず、結構忙しく、ビジネスラウンジは15分程度しか使用できませんでした。でも、無事に旅行を終了することが出来ました。
 今回の旅は、ロシアの古い教会や修道院、また、エルミタージュ美術館など、ロシアの有する世界最高級の美術品を鑑賞することが出来ましたが、それとともに、急速に変貌、発展するロシアを自分の目で確認することが出来ました。
 ロシアのGDPは国土の割に人口が少ないこともあって、まだ14位(2005年)と、それほどではありませんが、エネルギーや鉱物など、大量の資源を有しています。
 物づくりの技術で発展し、世界第二位のGDPを持つようになった日本も、資源を持たないがために、製品用原材料のみならず、食料までも輸入に頼っていますが、さりとていくら国土を探しても、資源が出てくることはなさそうです。世界の勢力図が徐々に変化してゆくのは避けられないようです。
 人口が減少し、老人が増え、若者は老人を養う余裕がなくなり、その上、政府の借金が膨大になりつつある日本ですが、政治家は政権争いに終始し、将来を見据える余裕はなさそうです。
 しかし、日本には優秀な人材が必ずいるはずです。そのような人を優遇し、育てる政策が必要です。必ずそうなると期待しています。







次の旅日記に移る(海外編)



旅日記の表紙に戻る