神聖なるガンジス河と神秘のインド

        世界遺産めぐり7日間

2008年12月11日(木)‐17日(木)

 インドのニューデリーへは16年前の9月に仕事で一度行ったことがありますが、そのときはものすごく暑く、タクシーに乗ったらクーラーがなく、窓を開けるとヘアードライアーの熱風を浴びたようになり、窓を閉めたまま走った思い出があります。
 その時は、物乞いがたくさんいて、貧しさを実感しましたが、最近はITのプログラム基地として実力を示しつつあり、自分の目でインドを見てみたいと思っていました。
 出発のわずか2週間前に、ムンバイ(旧ボンベイ)でテロ事件が発生し、占拠したホテルで100名以上もの死者を出す大事件が起こりましたが、旅行社に電話を入れてみた所、キャンセル料は非常に高く、今のところ全員出席すると言われ、私たちも行くことにしました。
 後になって、現地の添乗員に聞いたところ、インドへの個人旅行者はほとんどがキャンセルをしてしまい、現在の観光客は団体のみだそうです。
 今回の旅は比較的過ごしやすいこの時期を選んで計画しましたが、インドはあまりにも広く、いろいろと訪ねてもきりがないので、観光は北部のみにし、ガンジス川での沐浴とタージ・マハールの観光にしました。


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インドの国旗



 今回の旅は、デリーに到着後、ニューデリーとオールドデリーを1日かけて見学し、ついで、夜行列車を使用しヒンドゥー教の聖地、バナラス(ベナレス or ベナレシ)に行き、見学後、飛行機でカジュラホに向かい、ヒンドゥー教寺院を見学し、次は特急列車でアグラに行き、タージ・マハール寺院を見学するものでした。
 下の図の緑線は飛行機を、赤線は列車を、青線はバスを示しま す。




1日目 成田からデリーへ
2日目 デリー観光後、夜行列車でバナーラス(ベナレス)へ
3日目 バナーラス観光。サルナート遺跡、ガンジス河観光
4日目 ガンジス河観光後、空路でカジュラホへ
5日目 カジュラホ観光後、アグラまでバスと列車で移動
6日目 タージ・マハール観光後、ニューデリー空港から成田へ
7日目 成田に朝、到着

       

1日目 成田からニューデリーへ

 成田からデリーへはJALの直行便があり、成田を11時に出発し、デリー到着は午後5時でした。時差は3時間30分あり、飛行時間は行きが約9時間、帰りが7時間でした。下のルート図は飛行機のモニターに映されたものを転記したものです。



 インドの人口は約12億で日本の約10倍、中国に次いで世界2位であり、国土は、日本の約9倍あり、世界第7位にあります。
 インド人の約8割はヒンドゥ教徒と言われています。その他、イスラム教徒やキリスト教徒、仏教徒なども、それぞれの寺院を持ち、共存しています。
 ヒンドゥ教は世界で最も古い宗教と言われ、教祖はおらず、主にインドとネパールで信仰されています。牛を崇拝しその肉を食べない、カースト制度を尊重する、お墓を持たず火葬後散骨する、性器崇拝、女神崇拝、沐浴する、ヨーガなど、かなり独特な価値観を持っています。
 ただ、インドを旅していると、本当になんでもありという感じで、道路は歩行者、自転車、3輪自転車、3輪自動車、乗用車、バス、トラック、牛、馬、ゾウ、ラクダなどが一緒になって動いています。物乞いも至る所におり、ガンジス川には死体が流れています。死体が流れて行くのを見たのは初めてですが、その夜はいやな夢でうなされてしまいました。


インドの歴史

 今回の旅は、インドの主な歴史的遺産を巡る旅でもあるので、その歴史を ここに書いておきます。
 日本のような島国とは違い、広大な国土を持ち、隣国との国境が時代で変わり、また、多様な言語を持つインドの歴史はかなり複雑です。
 一般に良く知られた歴史としては世界4大文明の一つ、インダス文明があります。この文明は現在のパキスタンを流れるインダス川流域で、紀元前2300 年ごろから紀元前1700年頃の間に栄えたもので、その地域はインドのデリーも含まれています。
 当時の人々は計画的な都市づくりをし、下水設備も作られ、文字や数の体系を持ち、高度な工芸技術も持っていました。
 しかし、その後、インダス川の氾濫や乾燥化など、幾多の気候変動により、その文明は大地の下に埋もれてしまいました。
 紀元前4世紀半前、マウリア朝が成立し、半島南部を除く全インドを統一し仏教を積極的に保護しました。
 マウリア朝が衰退した後、前2世紀から後2世紀ごろにヒンドゥ−教の「マヌ法典」が作られています。
 その後、北インドと南インドには強大な2つの王国が誕生します。北インドでは、クシャーナ王朝の元、大乗仏教が発展し、ギリシャ・ローマ文化との接触によって、ガンダーラ美術が生まれています。なお、大乗仏教とは、一般民衆が一生に一度はお坊さんになる修行を受ける習慣を持つ仏教で、タイやミャンマーが大乗仏教の代表です。
 一方、南インドではサータバーハナ朝がデカン高原に勢力を拡大し、外国との交易を盛んに行い栄えて行きました。
 4世紀に入るとグプタ王朝が北インド全体を支配するとともに、南インド諸国にも勢力を拡げて行きました。
 この王朝の元、インド古典文化が開花し、バラモン教と民間宗教が融合したヒンドゥ教が発展しました。
 8世紀ごろになると、イスラム教徒が北部から侵入し始めましたが、11世紀、アフガニスタンのトルコ系王朝が本格的に侵入してきて、デリーを中心にイスラム国家を設立し、民衆を支配するようになりました。
 そして、16世紀、イスラム王朝ムガル帝国が誕生します。ムガル帝国の第三代アクバルはアーグラに首都を置き、北インド全域に勢力を拡げ、統治体制を確立します。その時、ヒンドゥー教徒を登用し、宗教上の融和政策をとり、17世紀の第6代アウラングゼーブの統治下で、領土は最大になり、南インドの大半を取り込んでいます。
 ムガル帝国の繁栄のもと、ヒンドゥー教文化を取り入れたインド・イスラム文化が開花し、タージ・マハルもこの時代に建造されています。しかし、領域の拡大に成功した第6代皇帝アウラングゼーブは、今までの皇帝が行ってきたヒンドゥ教との融合政策を廃止し、イスラム化を進めて行きました。その結果、民衆の心は次第にムガル帝国から離れて行き、帝国は衰退の道を歩み始めました。このムガル帝国は330年間続きましたが、イギリスのインド植民地化により滅亡してしまいました。
 なお、16世紀になるとポルトガルがインド航路を開拓し、インドとの東方貿易を拡大してゆきます。その後、16世紀末になるとポルトガルの勢力が弱まり、オランダ、イギリス、フランスがアジアに進出してきます。
 イギリスは東インド会社をインド、ベンガルに設立します。ムガル帝国は、搾取を続ける東インド会社に対し戦いを起こしますが、その戦いに敗れ、イギリスはインドへの支配を拡げて行きます。
 当初は香辛料や綿布などの商業活動を主とするものでしたが、18世紀になると武力を背景にインドの土地を奪い、住民を支配するようになり、1833年にはインド総督をおき、ほぼ全インドを支配するようになりました。それに対し、ムガル帝国は再び反乱を起こしますが鎮圧されてしまい、皇帝は捕らえられ、ビルマへと流刑され、1877年にはイギリス領インド帝国が成立し、ビクトリア女王がインド皇帝を兼ねることになりました。
 1900年代初めになると、反英運動と独立運動が盛り上がり、非暴力・不服従を掲げるマハトマ・ガンディー(1869-1948)が大衆運動を盛り上げ完全自治を要求してゆきます。
 第二次世界大戦後、疲弊したイギリスはインドから手を引く決意を表明します。しかし、インド国内では、インド統一を主張するガンディー国民会議派と、イスラム国家の建設を主張するジンナーらの全インド・ムスリム連盟が対立し、一時は武力抗争にまで発展します。
 その結果、1947年、インド帝国は解消され、ヒンドゥー教を主体とするインド連邦と、イスラム教徒を主体とするパキスタンに分裂します。その後、1971年、東パキスタンはバングラデシュとして独立します。なお、インドには、現在も約1億人のイスラム教徒が暮らしており、毎週金曜日にはモスクで礼拝をし、また、毎日、決まった時間に5回、お祈りを捧げます。
 なお、これらの国家は独立後もイギリス連邦内にはとどまっています。
 独立後、インドはネルー、その娘インディラ・ガンディーなど、多くの指導者が政権を握りますが、パキスタンや中国などの隣国との争いや、内部でのヒンドゥー教徒とイスラム教徒との争いが続き、貧困からは抜け出せませんでした。その間、原爆を世界で6番目に所有する国にもなっています。
 今回の旅行の直前に起こったムンバイでの同時多発爆発テロもイスラム過激派の犯行で、宗教間の争いと言われており、解決は困難なようです。
 なお、インドは周りのいずれの国々とも関係が悪い状態にありますが、それは大国であるが故だとも言われています。



     
2日目 デリー市内観光

 今日は1日、市内観光です。ホテルはニューデリーですが、観光目的地はオールドデリーにもあり、車窓から町の様子を見学できます。午後4時25分発の夜行列車でバナレスに向かいます。



クトゥブ・ミナール

 ニューデリーの南部の郊外約15kmの所にあるイスラム寺院の尖塔で、今の高さは72.5mですが、飛行機事故で壊される前の高さは100mもあったそうです。5階建ての尖塔で、各階にはバルコニーが作られています。
 この塔はイスラム教徒、アイバクが12世紀末にヒンドゥー教徒の王国を倒したことを記念してたてた戦争記念碑でもあるそうです。
 インドの歴史を見ていると、ヒンドゥー教徒のインドにイスラム教徒が侵入し、支配していった経緯がいたるところで見ることができます。
 8枚目の写真中央の鉄柱は4世紀ごろに建てられたもので、純度は100%近く、そのため錆が発生していないそうです。



フーマユーン廟 (世界遺産)

 ムガル帝国第二代皇帝のフーマユーンの廟で、その妃が思わぬ事故で急死した夫のために建設しました。
 フマユーンは詩をよみワインを愛する心優しい皇帝でしたが、政治や軍事の素質を欠いていました。フマユーンは大軍を率いて敵と戦いましたが、その戦いに敗れ、父が築いたムガル帝国の領土を失ってしまいます。そして、15年に及ぶ流浪の後、ようやく帰国し、ムガル帝国を再建します。しかし、再建のわずか半年後、自分で建てた図書館の階段で足を踏み外し、頭を打って急死してしまうのです。
 その死を悲しんだ妃は、残りの人生をこの霊廟の建築に捧げます。霊廟は9年かかって1565年に完成しています。
 アーチがつながる正方形の基壇の中央に高さ38mの霊廟がそびえます。この霊廟は、四方のどこから見ても同じ形をしています。
 この霊廟と庭園はその後のムガル帝国の霊廟に大きな影響を与え、インドにムガル建築といわれる華麗な様式が生まれたのです。
 この霊廟の90年後、第五代皇帝は亡き妃のためにタージ・マハルを建てましたが、その原型をこの霊廟に見ることができます。


 廟の中央に白い大理石の棺が置かれていますが、実際の遺体は、この真下に安置されているそうです。また、小さい部屋が幾つもあり、その中にも棺が納められています。


 基壇に上がると、霊廟を間近に見ることが出来ます。霊廟はペルシャの影響を強く受け、この地で取れる赤い砂岩に白大理石が巧みに組み合わされています。
 霊廟の四方は庭で囲まれ、庭園は正方形に区切られ、その中には水路が走っています。砂漠地帯で生まれたイスラム教にとって、水が流れる緑の庭園は天国を意味しています。



ラージガード(RAJGHAT)
 この公園の中にマハトマ・ガンジー(1869-1948)の霊廟が作られています。
 ガンジーはインド建国の父とも呼ばれていますが、1948年1月30日、右翼の過激派の銃弾に倒れます。ガンジーは火葬され、その遺灰は川に流され、残っていませんが、その霊廟が公園の中に作られています。
 ガンジーは人種差物の問題を解決すべく身を投じますが何度も投獄されます。彼は一切の武力闘争を否定し、非暴力、非武装の姿勢を貫き、断食闘争などで戦いました。この戦いにより、インドは支配国イギリスから独立しました。



市内の道路

 とにかく混み合っています。人が湧き出るように多いのにも驚きます。牛や馬、ラクダ、そしてゾウまで道路を歩いています。信号はめったにありません。



アクシャーダーム寺院

http://www.akshardham.com/

 20年ぐらい前から建設が始まり、最近、中央の建物が完成しましたが、その周辺はまだ建設中で、完成まであと10年ぐらい掛るそうです。
 ヒンドゥ教の総本山として造られたそうです。とにかく広く絢爛豪華な寺院です。内部は緻密でアルハンブラ宮殿を思わせます。鍾乳洞飾りにも似ています。ただし、ヒンドゥ教寺院ですので、男神、女神など、たくさんの像が置かれています。
 アンコールワットなども、造られた直後はこの様な美しさをかもし出していたような気がします。
 入場は極めて厳重で、徹底的な身体検査があります。鉛筆もだめ、メモ用紙も駄目です。革製品も駄目で、ベルトやお財布も、革でなければOKですが、トラブルの原因になるので、現地の添乗員さんが、全て、バスの中に置いていってくださいという、強い注意がありました。もちろんカメラはだめです。ツアーの一員がツアー日記メモを持ち込んだら取り上げられ、現地添乗員に泣きついていました。一人でもトラブルになると、グループ全員が待たされます。
 そういう理由なのでしょうか、入場者のほとんどは現地の学生たちなどで、入場する時から裸足で来ています。全員、建物に入るときは靴を脱ぎます。日本でも脱ぎますが、ここの床は大理石で出来ています。靴下は履いたままでOKでした。
 左の写真は、寺院のホームページからの転載です。




2等寝台列車でデリーからバナレスへ
 
 寝台車に乗るのは久しぶりのことです。日本にいると乗る機会はありませんので、もう、数10年間、乗っていません。。
 駅は何時もそうらしいのですが、ものすごい混雑です。日本の終戦後の風景を思わせます。
 なぜ1等車でなく2等車なのかわかりませんが、1等車は個室でかなり豪華だそうです。(この車両に付いているのかどうかは不明です。)
 2等車は2段ベット式で、2名用と4名用があります。私たちは2名用です。小さなゴキブリが窓を這っていました。家内が虫よけを吹き付けていましたが、焼け石に水でした。
 時々、食べ物や飲み物を売りに来ますが、ビールなどアルコール類はありませんでした。今夜はアルコール抜きになりました。
 乗車時間は13時間でしたが、列車はインド時間だそうで、約1時間ぐらい遅れました。とにかく列車はゆっくりと進み、時々停車しています。これぐらい遅れると、今、どこを走っていて、いつ降りればよいのか、見当が付きません。私たちは、現地添乗員が起こしてくれて、そろそろ降りる用意をしてくださいと言われましたが、一人旅は非常に難しいと感じでした。出発時刻は16:25でしたが、実際に出発したのは午後5時ごろでした。



      
3日目 バナーラス観光 

 ヒンドゥ教徒の聖地、バナーラスに朝6時半ごろ到着し、ホテルで朝食をとり、休憩後、ブッダが始めて説法をしたと言われるサルナート観光です。
 この地の英文名は Benares で発音はバナーラスであり、現地の名前は Varanasi (ヴァーラーナスィ)で、ベナレスは英文の日本語読みだそうです。したがってベナレスといっても、日本人にしか通じないそうです。
 午後はホテルで少し休憩後、ガンジス河での沐浴観光でした。



バナーラスに到着、ホテルへ

 到着予定時間は05:20でしたが、約1時間ぐらい遅れ、午前6時半ごろの到着でした。とにかく、無事、バナラスに到着です。
 早朝から駅は混雑していました。私たちを見つけて、たくさんのポーターが集まってきました。現地の添乗員が、小さな手荷物は自分で持って行って下さいと大きな声で私たちに言っていました。小さなものを預けると、どこかへ持って行ってしまうそうです。ポーターに荷物を持って逃げられたら、添乗員もお手上げだそうです。誰も助けてくれません。
 駅にはたくさんのサルが住みついていて、食べ物をねだっています。
 バスに乗ると、なんと蚊がものすごくたくさんいて往生しました。添乗員は、血は吸わないとか言っていましたが、お腹を真っ赤にした蚊も飛んでいました。この町もまたゴミがたくさん落ちていました。



サルナート観光

 まだ、強い霧に囲まれていましたが、サルナート観光に出発です。サルナートはバナーラスの北東約10kmの所にあり、ブッダ(仏陀、釈尊)が初めて説法をした地(初転法輪の地)であり、仏教徒にとっては重要な聖地になっています。
 ブッダは悟りを得た後、当時、たくさんの宗教者が集まっていたバナーラスに向かいましたが、その途中、この地で、かって一緒に修業をしていた5人の修行者に出会い、自分が悟った真理を語り、それに同感した5人は、その教えを世界中に伝えたと言われています。すなわち、仏教はヒンドゥー教のインドから広がった訳ですが、現在、インドには仏教徒がほとんど居ないようです。



ムールガンダ・クティー寺院

 中に入ると、壁面に仏陀の生涯が描かれていました。戦前、日本人画家が描いたそうで、顔立ちは日本風だと現地のガイドさんが言っていました。
 そこにいたお坊さんが私たち、一人ひとりの腕に、ひもを巻いてくれました。日本にはない習慣です。


 寺院の庭には、3代めの菩提樹の下にストゥーパ(土を盛り上げたお墓)があり、そこに入る門には、時計のようなデザインの輪がいろいろな所に使われていました。これは輪廻を意味するのだそうです。この模様はお札のライオンの像の台座にもなっています。



考古学博物館

 この地域で出土した展示品が飾られており、ヒンドゥ教の部屋、仏教の部屋などがあります。写真は禁止でした。



ダメークストゥーパ

 とても広い平らな敷地の奥にストゥーパが建てられています。6世紀ごろの建設だそうです。ただし、12世紀ごろ、イスラム教徒が侵入し、仏教徒に関するいろいろな遺跡を壊してしまったそうです。イスラム教徒はスペインでも教会を壊し、その上にモスクを作ったり、それを再度征服したキリスト教徒がモスクを壊したり利用したりしてキリスト教会を作ったのとよく似ています。
 現地のガイドさんの話によると、イギリス人はインドに来ていろいろと悪いことをしたが、遺跡を保護し、破壊から守ってくれたのが唯一、良いことをしたことだそうです。


 数組の仏教徒がお祈りを捧げておりました。信者でかつ観光客と思われる人たちが、ストゥーパに金箔を張り付けていました。しばらくすると、霧が晴れて、ストゥーパがきれいに見えるようになりました。
 このストゥーパの高さは31mで、直径26m、高さ13mの台座の上に造られています。



チャウクハンドィ ストゥーパ

 ブッダが5人の修行者に自分の悟りの内容を話した場所だそうです。
現地のガイドさんはアーリア人だそうですが、ブッダもアーリア人だそうです。とても誇り高い人種だそうです。





市内の風景、バスより見学

 相変わらず、混み合って居ます。何でもありです。




宿泊ホテル

 街中の汚い風景に比べ、なかなか立派なホテルでした。とりあえず、チェックインして、一休みです。



ガンジス河のお祈り風景観光

 ホテルから3輪自転車に乗って、ガンジス河のお祈り風景の観光です。ホテルからたっぷりと30分の走行でした。三輪車に乗るのは初めての経験ですが、とにかくお粗末な車で、今にも倒れそうです。二人乗りなので約10台ぐらいで進みますが、お互い速く走ろうと一生懸命です。少し登り道になると、歩いて3輪車を押します。昔自転車に乗った時も、登り道は歩いて押したのを思い出しました。混雑した交差点を横切る時など、スリル満点です。ガンジス河の近くに来ると大変な人ごみです。三輪車に乗っているのは私たちのみでしたが、警官にチップを支払い、見逃してもらっているとのことでした。


 貸し切り船に乗って、川からお祈り風景の見学です。すでにたくさんの船が人を乗せて、見晴らしの良い所に陣取っています。このお祈りは、地震があっても、戦争があっても決して終わることは無く、未来永劫続くそうです。
 このお祈りの場に隣接し、たくさんの火葬場があり、ここでも火葬になる遺体が置かれています。
 以前、NHKのスペシャル番組でも見ましたが、死が間近になると、家族一同が伴って、この近くの宿に泊まり、死を待つのだそうです。安宿にするか、高級な宿にするか、いろいろだそうです。火葬場の写真は絶対の撮らないで下さいと、ガイドさんからきつく言われました。


 再び船を下り、坂を登り、3輪車に乗ってホテルに向かいます。物乞いする人たちが列を作って居ます。老人、子供いろいろですが、ここにいる老人は、一生ここから抜け出せないのかと考えると、気が滅入ります。



      
4日目 ガンジス河沐浴観光、その後、飛行機でカジュラーホーへ移動

ガンジス河沐浴観光

 名目はガンジス河の朝日観賞ですが、霧が深く、朝日を見るのは無理なようです。通常は朝の5時15分に出発だそうですが、今日の出発は5時50分でした。今朝はガンジス河までバスでした。
 到着すると、灯篭売りの子供が寄ってきました。ろうそくに火を付け、河に流します。


 霧が濃くて良く見えません。まだ朝が早いためでしょうか、沐浴している人はあまり居ませんでした。
でも、洗濯をしたり、お祈りをしたり、何時もの風景がもう、再現されていました。岸からちょっと離れると、ガンジス河の水は、少し青みがかっていますが、とてもきれいです。黄河のような土の成分が入っているのではなく、山から溶け出した鉱物が入っているようです。この水を瓶に詰めて保管すると、何年たってもそのままの状態で保てるそうです。ガンジス河の源流はヒマラヤ山中の高峰に囲まれた雪原だそうで、全長が2500kmとアジア最大級の大河です。 
 船の脇をスーと死体が流れて行きました。青年の様です。服を着たままうつ伏せになっています。本当にびっくりしました。ヒンドゥ教では、子供は火葬せず、そのまま、河に流すそうです。でも、流れていったのは、青年のようでしたし、何にも包まれておらず、通常の服を着たままでした。


 岸辺にはたくさんの火葬場があり、朝早いこの時間でも、死体が焼かれていました。ガイドさんから死体を焼く場所の写真は撮らないようにとの注意がありました。そういう法律があるわけではないのですが、焼き場の人がそれを見つけると、100ドルとか、高額の請求をしてきてトラブルの原因になるそうです。
 焼き場近くの旧市街を通って、バスまで戻りましたが、たくさんのゴミが落ちています。誰も掃除をしないようです。もっとも、清掃車が来るわけではなさそうで、集めがごみの処分にも困るのでしょう。



付録:絵葉書から

 沐浴ですが、お祭りにはこの様にたくさんの信者が来るようです。


 火葬場の様子の絵ハガキです。焼かれた後はそのままガンジス河に流され、後には何も残らないそうです。
 火葬場は、一番下流にあります。



ホテルの浴室の電話

 ホテルの浴室の電話です。普通ならあり得ない取り付け方です。
 以前、ニューデリーにある研究所を訪問した時、新築されたばかりなのに、隙間だらけの内装にはびっくりした経験があります。
 どうも、細かいことには拘らないようです。


 沐浴観光後、ホテルに戻り朝食でした。12時20分発の飛行機で、カジュラホ行きの飛行機は12時20分発の予定ですが霧が晴れず飛べない可能性があるとのことです。とりあえず、ホテルで待機です.
 待つこと、1時間ですが、まだ飛べるかどうかはっきりせず、とりあえず空港に向かい、今度は空港で待機です。飛べないと、バスで行くそうですが、13時間は掛るそうです。
 これから向かうカジュラホの空港は非常に小さく、誘導設備が貧弱で、霧があると着陸できないのだそうです。
 幸い、3時間以上も遅れましたが、無事に出発できました。安堵しました。



カジュラーホーのヒンドゥ教寺院見学(世界遺産)

 遅れての到着でしたが、現地の搭乗員が、町の南側にある小さな寺院の見学を急遽募集しました。3輪自転車に乗り、1時間程度の見学で、一人千円とのことでした。安いこともあって全員が参加しました。
 バナーラスの雑踏とは無縁の、簡素な静かな村の中に、たくさんのヒンドゥ教の寺院があります。飛行場や村のホテルは、すべてこのお寺群を見学するために作られているそうです。
 小さな寺院に到着すると子供たちが寄ってきておねだりしています。それほど貧しいとは思われません。教育の問題でしょう。



チャトゥルブジャ寺院(Chaturbhuja Temple)

 村から3kmぐらい東に行ったところにある小さな寺院で、11世紀に作られています。西を向いて建てられている小さな質素なお寺ですが、内部には女神が設置されていました。カジュラーホーの寺院の中で、エロチックな彫刻が施されていないのはこの寺院だけだそうです。



ドゥラーデーオ(Duladeo Temple)

 村の南側にある寺院で、シヴァ神を祭っています。村では最後に建てられた寺院といわれ、1130年に作られています。もう日が落ち、暗くなってきました。内部は金網で囲まれ、良く見えませんでした。



インド舞踏、カンダリアンダンス観賞

 今度はホテルから近くにある劇場での民芸カンダリアンダンス観賞でした。寺院に飾られている女神たちやヨガのポーズがたくさんありました。先端を丸くした釘の上での踊りも披露されました。訓練していると、足底が革のように丈夫になるのでしょう。



        
5日目 カジュラーホー寺院(世界遺産)、見学後、特急列車でアグラへ 

 午前中、カジュラーホーの西に集中している寺院群を観光後、特急列車が停車するジャンシー駅までバスで行き、そこからアグラへ向かいます。バスに4時間、列車に2時間半の長距離移動です。



西群の寺院

 カジュラーホーの村は10世紀から14世紀の間、チャンデッラ王朝の都として栄え、その最盛期12世紀ごろまでに数多くの寺院がたてられ、それらは85もあったそうです。現在、25の寺院が残っているそうです。これらは芸術的価値の高い彫刻が施されたヒンドゥー教およびジャイナ教の寺院群です。
 昨日、簡単に東と南の寺院を見たので、今日は西群の寺院を観賞です。西群のお寺は、大きな敷地の中にあり、入るのには入場料が必要なようです。とてもきれいに整備され、たくさんの人が、庭や建物の清掃、修理をして居ました。砂岩で出来た寺院は、すぐに黒くなるようで、時々、表面を洗うのだそうです。やぐらを組んで洗っている途中の寺院もありました。
 カンボジアのアンコールワットも、ヒンドゥ教寺院ですが、それに比べこの寺院群の保存状態は遥かに良く、昔のアンコールワットもこの様に美しかったのでしょうか。
 敷地の中に入ると、三つの屋根をもった建物が見えます。ほかの建物はすべて10世紀から12世紀にかけて作られたそうですが、この建物は約100年ぐらい前に当時の王様が建てたそうで、右から仏教寺院、イスラム寺院、ヒンドゥ寺院がつながって建てられています。どの宗教を信ずる人も仲良くするようにとの意味だそうです。


 たくさんある寺院にはそれぞれ名前が付けられていますが、聞き慣れない名前でとても覚えきれません。
一番高い寺院の高さは30.5mあります。
 広々とした敷地に中に、芝と花が調和し、静かなたたずまいをかもし出しています。とても素晴らしい風景です。1日中、ぶらついていても飽きないかもしれません。

 
 寺院の外壁は砂岩の彫刻で飾られていますが、これらはいずれも、この地から離れた場所で作られ、ここに運んだあと、組み立てられたそうです。
 何といっても、この彫刻の特徴は、男女の絡み合いです。
 表情の豊かですが、神のような顔立ちをしながらの絡み合いも、何か宗教観を感じさせます。


 説明の必要はないと思いますが、全ての寺院に、エロチックな彫刻が飾られています。ガイドさんがホテルへ帰ったら試してみてください、とか言っていましたが、ツアー全員がお年寄りです。ヨガを取り入れた、アクロバットのような姿には驚きです。



シャーンティナータ寺院 (Santinatha Temple)

 村の東にある寺院で、ジャイナ教寺院です。ジャイナ教はインドの一部で信仰されており、白衣派と裸行派があり、特に裸行は、一切ものを持たないことの表しだそうです。


 あまり広くない中庭があり、それを囲んで、たくさんのジャイナ神が祭られています。男神、女神も身には何も付けていません。何も持たないということに意味があるのでしょうか。


 カジュラーホーからジャンシー駅へバスで向かいます。ほとんどが平地で、菜の花畑が延々と続いていました。


 特急列車でジャンシー駅からアグラ駅に向かいました。広さは日本の新幹線とほとんど同じでした。ただし、飲料水1リットル、簡単な食事、お茶などの無料サービスがありました。ただし、アルコール類のサービスや販売はありませんでした。出発は17:56で、乗車時間は約2時間30分です。



アグラのホテルに到着

 
 アグラ駅には午後8時半ごろ到着しました。その後、バスにてホテルに向かいました。
 かなり高級なホテルです。そのためでしょうか、ホテルに入るのに手荷物検査があるのにはびっくりでした。3週間前にムンバイでテロがあり、100名以上の死者を出したのが原因だと思います。




       
6日目 タージ・マハル(世界遺産)とアグラ城(世界遺産)の見学。

                 その後、夜行便にて成田へ。

 アグラはデリーの南東200kmの所にあり、16世紀半ば、ムガル帝国第3代皇帝アクバルが首都をここに置き、隆盛を極めました。
 アーグラはデリーの南、約200qの所にあり、インド全体を支配するに至ったムガル帝国の都がここに置かれました。
 アーグラは蛇行しながら進むヤムナー川のほとりに位置しています。


 朝の散歩です。ホテルは驚くほど広く、入口の門には鉄砲を持った守衛がおりました。ムンバイのテロなどの影響でしょうか。



タージ・マハール(世界遺産)
 
 いよいよ今回のインドツアーの目玉で、インドイスラム芸術の最高傑作と謳われるタージ・マハルの見学です。
 ホテル出発は早めの7時半でした。そういうこともあって、非常に空いており、今日は霧もなく、タージ・マハルは、青空に輝く真珠のように美しい姿を見せていました。
 この建物は、22年の歳月をかけ1653年に完成しています。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、38歳と若くして亡くなった妃、ムムターズ・マハルのために造りました。
 シャー・ジャハーンは15歳の時、家臣の孫娘で12歳であったムムターズ・マハルと市場で出会い、可憐な売り子姿にひと目ぼれしし、マハルが17歳になると二人は結婚します。二人の間には14人もの子供に恵まれ、また、妻は献身的に夫に尽くし、戦場にまで一緒に付いて行き、転々としながらも、二人はいつも一緒でした。しかし、遠征先で15人目の子供を産むと、帰らぬ人となったのです。死ぬ直前、妻は私のために墓を作り、忘れないでほしいと願ったそうです。この物語は、日本の歌舞伎の題材のように、インドの舞踏でよく演じられているそうです。
 妃の死を嘆き悲しんだシャー・ジャハーンは自分の住む城から少し離れたところにお墓を作り始めました。1631年のことでした。16年後、お墓はほぼ完成しましたが、すべての工事を終え完全に完成したのは1653年でした。妻の死から22年も経っています。
 このお墓には、4本のミナレットや巨大なドームも造られていますが、お墓として造られたものであり、白亜の建物の中に入ると棺が二つ置かれています(撮影は禁止でした)。広い空間に棺が置かれているだけで、それ以外は、何もありません。王の亡骸はタージ・マハルに眠るムムターズ・マハルのすぐ横に安置されています。二人にとってそこは永遠の愛を貫く安息の地となったのです。
 建築には1万トンを超える白い大理石と、延べ2万人を超える職人と16年の歳月が必要でした。この巨額の費用がムガル帝国衰退の一因だとも言われています。
 天文学的に達した建築費も一因となり、3男が部下とともにクーデターを起こし、二人の兄を殺し、父親をアグラ城の一室に幽閉してしまいます。 


 タージ・マハルとアーグラ城塞は、ヤムナー川のほとりにつくられています。それらの間の距離はわずか1.5q程度で、アーグラ城塞からはタージ・マハルをよく望むことが出来ます。
 息子によってアーグラ城の一角に幽閉されたシャー・ジャハーンは、66歳から死ぬまでの7年間、自分が造ったタージ・マハルを見ては過ごしていたと言われています。幽閉されたその部屋は、亡くなった妃のために作ったジャスミンの部屋でした。
 シャー・ジャハーンにとって唯一の慰めは、この部屋からタージ・マハルの建物が見えることだったそうです。。
タージ・マハル Google Map からです。
 4本のミナレットと巨大なドームを持つ霊廟の左側(西側)にある建物はモスクで、今も金曜日にはイスラーム教徒がここに集まり、礼拝をしています。右側の建物は迎賓館で、妻の墓への客をここで迎えました。
 巨大な墓の前には広い庭園が造られ、十字型をした水路が正方形に配置されています。
、水と緑、そして、完璧なシンメトリーの世界、それはイスラム教徒にとって天井の楽園を意味するものでした。
アグラ城塞とムガル帝国  Google Map からです。
 アグラ城はムガル帝国(1526年〜1858年)の城塞です。
 ムガル帝国はイスラム勢力によって創建され、16〜17世紀にインドの大半を支配するようになります。ムガル帝国の歴代の皇帝は安定した集権政治を発展させ、17世紀にはその領地を最大に広げました。なお、ムガルとはモンゴルを意味します。
 ムガル帝国はチンギス・ハーンの血をひくとも伝えられるバーブル(在位1526〜30年)が王朝を創始し、アグラに首都を構えました。二代目の子、フマーユーン(在位1530〜40、1555〜1556年)時代はまだまだ基盤が弱かったもののその子アクバル(在位1556〜1605年)は支配構造を確立し、国の基盤を確立します。4代目ジャハーンギール(在位1605〜27年)、5代目ジャー・ジャハーン(在位1628〜58年)、6代目アウラングゼーブ(在位1658〜1707年)と確実に領土を拡大しますが、17世紀の末から贅沢な宮廷生活により財政難に陥り、18世紀には短命な皇帝がつづき、地方が反乱を起こし始めます。加えて18世紀後半にはイギリスのインド会社がベンガル地方を皮切りにインドの領土を拡大してゆき、最後の皇帝はイギリス軍に捕らえられてビルマに流罪となり、ムガル帝国は滅亡しました。



 タージ・マハルは赤い砂岩の建物によって囲まれています。入り口の門には立派な模様が施されています。番兵が銃砲を抱えて、壇の上から見張っていました。


         

 正門から中に入ると、左右対称のイスラム建築、タージ・マハルが姿を表します。その広さは幅250m、奥行き350mです。何という美しい建物でしょうか。
 基壇だけでその高さは7m、ドームの頂上までは67mもあります。
 巨大な墓の前に広がる真四角の庭園、水路が交差する造りはイスラームの理想の庭です。枯れることのない水、実った果実、花が咲き、鳥が遊ぶ、それは砂漠に住むイスラームの民にとって理想の楽園でした。
 イスラームの建造物は一般に外見は質素に、そして、内部は豪華に作られています。その典型はスペインのアルハンブラ宮殿です。しかし、インド芸術と融合したタージ・マハルは内部は質素に、外観はあくまでも美しく作られています。
 このタージ・マハルは、たぐいまれなる比べるほどのないほどの傑作として1983年、世界遺産に登録されています。



 お墓の白い大理石にはアラビアのサンゴやペルシャのアメジスト、中国のヒスイなど、せかっ各地から集められた宝石が埋め込まれています。
 白いドームのお墓の周りに4本の尖塔がそびえています。通常、尖塔は、お祈りを呼び掛けるために作られていますが、ここはモスクでなくお墓なので、普通の尖塔とは形が少し違うそうです。


 タージ・マハルの後ろ側にはヤムナー河が流れています。残念ながらだんだん霧が濃くなって来ています。早く来たのでまだ見ることができて助かりました。

 お墓から正門を見た風景です。逆光のなかに霞んで見えます。噴水はあまりにも対照的で、少し斜めから見たほうが、なにか、安心感があります。
 この広い芝生には、かって果実をつけた木々や草花が生い茂っていましたが、イギリスの統治時代に、芝生に変えられてしまったそうです。現在、古い資料を基に、芝生にはレモンやザクロなど、果実をつける苗木が植えつけられています。

 



アグラ城(世界遺産)

 赤く高い壁に囲まれたこの城は、ムガル帝国の3代目の皇帝アクバルによって1565年に建設されました。2.5qにも渡る難攻不落の城壁が続き、ムガル帝国の権力の象徴とも言われています。この城壁はこの地の近くで発掘された赤砂岩で造られ、赤い城とも呼ばれています。赤は力強さを示すともいわれています。城は深い堀にも囲まれており、お堀に架けられた橋ではお猿さんから出迎えです。門をはいって坂を上がると、広い敷地に出ます。さらに門をくぐると、シャー・ジャハーンが造った一般人との謁見の間が現れます。



謁見の間(公謁殿)

 アグラ城は赤一色の砂岩で造られていましたが、5代目皇帝シャー・ジャハーンは白い大理石を使用して城を華麗に作り変えて行きました。
 シャー・ジャハーンはこの大理石の館の中に大理石の王座を作り、民の訴えを聞き、裁定を行いました。王はこのアーチ模様の中で、自分が光り輝くように演出したとも言われています。



ムムターズの寝殿

シャー・ジャハーンは赤一色の城の中に妃のために白い華麗な寝殿を建てました。部屋の壁や天井は豪華な金細工で飾られています。また、ここはシャー・ジャハーンの居間でもありました。



その内部には美しい彫刻がなされています。


 さらに中に入ると、広い芝生の中庭を囲んだ宮殿が現れます。



 霞がかかり遠くがよく見えませんが、ここからはタージ・マハルがよく見えるそうです。


 後年、ジャー・ジャハーンが幽閉された部屋です。それは、ジャー・ジャハーンが妃のために作ったジャスミンの部屋でした。ここの塔からはタージ・マハルを身近に望むことができす。
 草花や宝石をちりばめたこの豪華な部屋が皮肉にも、自分を閉じ込める牢獄となりました。


 再び、違う中庭に出ると、広い広場に出ます。そこには、かって、皇帝が使用したと言われる石でできた風呂が置いてありました。大きなお風呂です。



大理石細工(像芸技術)

 アグラ城を見学後、大理石などの土産屋で一休みの後、空港へ向かいました。 
 当時、アグラ城やタージ・マハルの大理石を飾るため、インド中から優秀な職人が集められました。その末柄が伝統を引き継ぎ、今でも像芸細工を造り続けています。昔は大理石をノミで削りましたが、今は歯医者が使うような器具を使って掘るのだそうです。


 高速道路のような料金所は、州の境界を通る時に支払う通行税だそうです。空港近くになると、相変わらず混雑していました。
 飛行機はJL−0472で、19:50発です。デリーから成田までは、偏西風に乗り、7時間で到着でした。結構よく眠れました。成田到着は午前6時半ごろでした。時差が3時間半と短いこともあって、帰国後も普通と変わりませんでした。
 今度のインドの旅は2度目で多少経験があったとはいえ、驚きの連続でした。とにかく何でもありで、国土も広く、人口も多く、死体が流れていても、誰も問題にせず、多少のことでがあっても、全体からみると微々たることなのかも知れません。まさに大国です。



1年のまとめ

 この1年、毎月海外旅行をしようと決め、幸い風邪もひかず、また何一つ問題もなく、無事念願を達成しました。
 最初のうちは探検家の卵にもなったような気分もありましたが、そのうちマンネリ化して海外旅行が当たり前になってきてしまいました。ただ、家を空ける期間が長く、いろいろなお誘いを断ることになってしまい、またゴルフに費やす時間が少なくなり、だいぶスコアが悪くなってしまいました。
 ただ、テレビで放映される世界遺産の番組を見ていると、これも見た、あそこへも行ったというところが増え、その理解度がだいぶ深くなりました。
 来年はもう少し国内旅行を増やしたいと思っています。
 旅行後、毎回旅行記を書いていますが、行く前にはほとんど何も調べずに行っています。そういうこともあって旅行先で撮った写真を見ながら旅行記を書くと記憶が鮮明になってきます。ただし結構時間を取られますので忙しいときはなかなか進みません。間違いがあるかもしれませんがこの旅行記は基本的に自分が後で見て楽しむために作っています。ただ、だれかほかの人が見るかもしれないという可能性も含めて書いています。






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