クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、

 ボスニア・ヘルツェゴビナ4ヵ国周遊10日間

トラピクス
 
2009年10月7日(水)〜10月16日(金)

 まだ、ユーゴスラビアという国があった頃の1981年10月、光通信の規格を決める国際委員会がドブロブニクで開催され、約1週間滞在したことがあります。
 ドブロブニクはアドリア海の真珠とも呼ばれる美しい街で、赤茶色の屋根瓦の家々が広がり、旧市街は立派な城壁に囲まれています。この町は1979年、世界遺産に指定されています。
 しかし、1991年から内戦が勃発しその様子はテレビでたびたび放送されていました。なぜあのような美しい街でそれも現代社会で戦争が生ずるのか大変心を痛めて居ました。
 戦争は人民に多大な被害を与え苦しめ困窮をもたらします。日本の戦国時代、大将は戦争による被害から人民を守るため、自ら切腹したり全ての権限を放棄したりした例が幾つもありました。
 しかし、第二次世界大戦においては国民を戦争に駆り出し憲兵は民衆を監視し、女性には竹槍を持たせ、最後は特攻隊を考案し国土が焼け野原になるまで戦いを続けようともしました。
 ハプスブルグ家の最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフは民族の融合こそ帝国発展の基盤であるとウィーン大改革に取り組みました。しかし帝国の支配から逃れようといろいろな民族は独立を望みその過程で民族間の争いが激化してゆきました。
 自らを犠牲にしても、民を守ろうとした指導者、また民族主義の名のもとに人民を駆り立て戦争を起こした指導者、これらの違いは何処から来ているのでしょうか。
 当時、この戦争を契機に民族とは何かといういろいろな本が出版され、また幾つもの特集番組が放映されていました。この内戦は1995年終結しましたが、その後の復興の様子がたびたびテレビで取り上げられていました。
 現在は住民や国際社会の援助で昔の美しい街がすっかり復元され観光客がたくさん押し寄せています。
 今回の旅はもう一度、ドブロブニクを訪れて見たいと思ったのと、世界の火薬庫と言われるバルカン半島を見て回り、民族についても考えてみたいと思ったからでした。
 幸い最近はクロアチア周辺の旅が大変ブームで日本からたくさんのツアーが組まれており、私たちは一人22万円+アルファのトラピクスによるツアーに申し込みました。ツアーの参加人員の内訳は御夫婦が10組でその他は女性たちの合計36名でした。
 なお、同じトラピクスからもう2台のバスが走っており、またクラブツーリズムのバスも走っていましたから、合計140名ぐらいの日本人グループがほぼ同じ時刻に同じルートを走っており、その人気ぶりが伺えます。
 グループの中には初めてのヨーロッパ旅行だという方もおりました。私にはロンドン、パリ、ローマ、スイス、スペイン、オランダなどの方が普通だと思うのですが、いろいろな考えがあるものです。
 クロアチアと言えば、我々日本人にとってはサッカーのワールドカップで何度か戦い、またオシム監督がクロアチアから来たこともあって、日本人には良く知られています。
 今回の旅行で、昼食の途中ご一緒したご夫婦の方が、わたしはもう何もいらない、ただ健康だけが欲しいと言っていたのが印象的でした。年を取ればいずれは誰もがそうなるのですが、まだ元気で回れる私たちは幸せです。

 今回のルートは、成田からウィーンに飛び、市内をちょっと見学後オーストリアの地方空港のクラーゲンフルトへ飛び、そこからバスでスロベニアに移動し、4カ国を訪問するものでした。下にそのルート図を示します。



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旧ユーゴの解体と6カ国の誕生について、少しまとめてみました。→ここをクリック

曜日 観光地 宿泊地
1日目 成田からウイーン経由スロベニアのブレッドへ スロベニア、ブレッド
2日目 ブレッド湖観光、ポストイナ鍾乳洞観光 クロアチア、アパティア
3日目 ダザール旧市街散策 クロアチア、トロギール
4日目 トロギール観光(世界遺産)、スプリット市内観光(世界遺産) クロアチア、ドブロヴニク
5日目 ドブロヴニク観光(世界遺産)
モンテネグロのコトル観光(世界遺産)
クロアチア、ドブロヴニク
6日目 モスタル(ボスニア・ヘルツゴビナ、世界遺産)観光 クロアチア、コレニツァ
7日目 プリトヴィッツェ湖群国立公園観光(世界遺産) クロアチア、コレニツァ
8日目 リュブリャナ自由散策 スロベニア、リュブリャナ
9日目 ウィーン経由成田へ
10日目 午前成田到着

 

 今回訪問した国の内、スロベニアはEUに加盟していますが、その他の国はまだ加盟していません。


        
1日目 成田からウイーン経由スロベニアのブレッドへ

 今回のルートは成田からオーストリア航空でウィーンに飛び、そこで地方空港のクラーゲンフルト行きに乗り換え、クラーゲンフルトからはバスで国境を越えスロベニアのブレッドまで行くものでした。
 成田からウィーンまでの飛行時間は12時間でしたが、座席は3席続きの窓側Aと真中のBしか取れず、通路側ではありませんでした。過去数十回の飛行で通路側に座れなかったのは初めてでした。ただ、通路のC席の方が気を利かし、たびたび席を立ってくれたので、それほど不便は感ぜず助かりました。
 ウィーンでの飛行機の待ち時間は5時間もありましたが、旅行会社がバスを仕立て、ウィーン市内にあるレストランでの夕食となり、3か月前に訪れたウィーンの街を再び観光することが出来ました。


 クラーゲンフルトに着いたのはもう、夜の10時なっており、バスで国境を越えスロベニアのフレッドに向かいました。到着は真夜中の12時を少し過ぎていました。
 スロベニアは旧ユーゴの中で唯一EUに加盟しており、国境でのパスポート検査はありませんでした。ただ、真夜中の走行のため、どこを走っているのか見当が付きませんでした。




         
2日目 スロベニア ブレッド湖観光、

              ポストイナ鍾乳洞観光

スロベニア
スロベニアの地図



 スロベニアはオーストリア、イタリア、ハンガリー、クロアチアの4国と接し、国土面積は日本の秋田県と青森県を合わせた程度の広さで、人口は203万人と栃木県の人口とほぼ同じであり、国際的には非常に小さい国にランクされています。
 旧ユーゴスラビアから1991年分離独立し、2004年にはEU加盟を果たしています。 
 スロベニアは小さいこともあって、歴史に翻弄され続けてきました。ハプスブルグ家によるオーストリア=ハンガリー帝国時代はその支配下に置かれ、ハプスブルグ家が崩壊するとナポレオンに占領され、フランス帝国の支配下に置かれます。その後、ドイツナチスの占領下におかれたり、イタリアやハンガリーにも侵攻され、三つの国に支配されるようにもなりました。
 第二次世界大戦後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属し、その構成国に一つのスロベニア人民共和国となりました。 
 ユーゴスラビア連邦国はソ連の影響を受けるのを好まず、独自の政治体制を取り、また、西側陣営とも比較的友好的な態度を取り、チトー政権下では共和国の自主権をかなり認めていました。 
 1980年代、ソ連邦やユーゴスラビアなど社会主義連邦国家は経済的苦境に陥り、民衆の不満が増加するとともに、民主化の波が押し寄せていました。
 スロベニアはイタリアやオーストリアに接し、先進的工業地帯になることに成功していましたが、ユーゴスラビア連邦はそこで上げた利益をセルビアやコソボ、ボスニア・ヘルツゴビナ、マケドニア、モンテネグロなどに使用しており、それに不満を持ったスロベニアは連邦からの独立を決意し、1991年、住民投票を行い、ユーゴスラビアとの連邦解消とスロベニアの独立を宣言しました。
 スロベニアでは、スロベニア人が大多数を占め、その人たちが信仰する宗教も、カトリックがほとんどを占めていたため、独立することに対する国内での意思統一は比較的簡単に出来たようです。
 この独立宣言に対し、スロベニアに常駐していた連邦軍と戦争が勃発しましたが、わずか10日間で終結し、少ない損失で独立を達成しています。
 独立を望んでいたスロベニアやクロアチアに対し、それに反対していたのはセルビアでしたが、スロべニアはセルビアと接していなかったのも戦争が速やかに終わった理由の一つと言われています。
 スロベニアは北や西にアルプスを持つ比較的山地の多い国で、わずかな地域が海に接しています。
 午前中はスロベニアはを代表する観光地ブレッド湖とブレッド城の観光で、午後はヨーロッパ最大の鍾乳洞、ポストイナ鍾乳洞の観光でした。
 その後、国境を渡り、クロアチアのオパティアでの宿泊です。
 



ブレッド湖観光
 
 ブレッド湖はスロベニア有数の観光地で、ハプスブルグ家は、温暖なこの地に別荘を作っていたそうです。
 今日の観光は9時からスタートですが、ブレッドの周囲は6kmであり、急いで歩くと1時間強で回れるそうです。私たちも朝食後、散歩に出かけましたが、一周にチャレンジした人は居なかったようです。
 さすが、有数な観光地なのでしょう。かなりの数のホテルが湖畔やその周辺に作られていました。
 エメラルドのように美しい湖面に聖マリア教会が浮かび上がって見えます。また、湖の向うの岸壁の上にブレッド城が建っています。アルプスの瞳と言われるのも納得でした。


 バスにて船乗り場に向かい、そこから手漕ぎボートに乗り、ブレッド島の聖マリア教会の観光です。この湖では、環境保護のため、エンジン付きボートは禁止されているそうです。
 湖面から教会まで98もの階段を登るのですが、この教会の売り物は独特な結婚式で、新郎は新婦を抱き上げこの階段を登るのだそうです。結婚式が決まったら、新郎は体力増強に励み、新婦は減食に励むのだそうです。
 もう一つの特徴は、教会の鐘で、それを鳴らす紐が教会の中央部にぶら下がっていました。鐘を鳴らすと願い事がかなうと言われていますが、なかなかコツがいるそうです。


 バスは山道を登り、今度はブレッド城の観光です。先ほど訪れた聖マリア教会が湖面に浮かびあがって見えます。まるで絵画を見ているような風景です。
 ブレッド城の周りには頑丈な塀やお掘りがあり、作り方は違うものの、日本のお城のような守りになっています。
 城の中は博物館になっており、当時の生活をしのぶことが出来ます。
 



ポストイナ鍾乳洞  http://www.postojna-cave.com/en-index
 
 スロベニアやクロアチアの大地の多くは石灰岩で覆われており、スロベニアだけでも1000個もの鍾乳洞が発見されているそうです。
 このポストイナ鍾乳洞は世界で3番目、ヨーロッパでは最大だそうです。全長は27kmもあり、入口から2kmほどはトロッコに乗って鍾乳洞の中を進みます。トロッコは狭いトンネルや広大な鍾乳洞の中をかなりの速さで進みます。
 到着後、約1.7kmの舗装道路を約1時間強かけて歩き、またトロッコに乗って帰ってきます。
 入口には写真禁止の看板が掛っていましたが、中に入ると、現地の案内人がフラッシュを使わなければOKだと言っており、その後はたくさんの人が写真を撮っていました。


 この鍾乳洞はアメリカで見たカールスバット国立公園よりもだいぶ広く大きいようです。アメリカでは洞窟を原形のまま保つよう大変な努力をしていますが、この鍾乳洞はトロッコを敷くなどして環境を破壊しているということで、世界遺産には指定されていません。ただし、さほど遠くない所にあるスロベニアのシュコツィヤン鍾乳洞は世界遺産に指定されています。



NIPPON
 
 今夜の夕食はホテルでのバイキングでした。私たちツアーの席は、NIPPON と書かれていました。
 クロアチアと言えば、ワールドカップでの対戦で、日本の応援団がニッポン、ニッポンと大声援を送ったのが思い出されます。クロアチアの人たちもそれをよく覚えているのでしょう。日本をジャパンと言わず、日本と読んでいるようです。ちなみに、クロアチアは英語読みの名称で、正式名称はクロアチア語でRepublika Hrvatska、フルヴァッカと言うそうです。


       
3日目 クロアチア ダザール旧市街散策
 
クロアチア



 クロアチアは、北にスロベニア、ハンガリー、東にセルビア、南にボスニア・ヘルツゴビナ、飛び地のドゥブロブニクはモンテネグロに接し、 西のアドリア海には直線状態でも600km以上も接し、そこには無数の島々が点在し沿岸を豊かにしています。
 クロアチアの面積は九州より少し小さく、人口は福岡県より少し少ない約450万人で、面積、人口ともスロベニアの約2倍あります。
 EUに加盟すべく、いろいろと努力をしていますが、まだ、達成していません。
 クロアチアも旧ユーゴスラビアの共和国の一つでしたが、チトー大統領がユーゴスラビア連邦を建国する以前、クロアチア人とセルビア人の間で凄惨な戦闘が繰り広げられ、お互いに数十万人もの人を強制収容所で虐殺したと言われています。
 チトー大統領は、これら、いがみ合っていた民族を束ね、1980年に死ぬまで、35年間も統治してきました。その間に民族間の融和が進み、異民族間の婚姻も進んでゆきました。その結果、クロアチア内にもたくさんのセルビア人が住みついて来ました。
 チトー大統領の死後、セルビアでは、民族主義を掲げるミロシェビッチが頭角を現し、「セルビア人に危害を与える者には復讐する」とのスローガンを掲げ、人民から圧倒的支持を受け大統領に選ばれます。それに対し、クロアチアでも民族主義を掲げるトゥジマンが大統領に選ばれ、1991年、ユーゴスラビア連合から独立する旨宣言を行いました。
 当時、クロアチア内には12%を超えるセルビア人が住んでおり、かつ、かなり広い地域を占めていました。そこに住んでいたセルビア人たちはクロアチアの独立に反対し、セルビア人自治区を作り始めました。クロアチアとセルビア人の戦いは、当初、小競り合い程度でしたが、それに対しセルビアは連邦軍を出動されるなど、だんだんと大きくなり、ついには、数十年も前に起こったと同じような凄惨な戦いとなり、今まで仲良く暮らしていた住民同士が銃を持ち、殺し合いを始め、虐殺、略奪、強姦など、一つの村がそっくりなくなるような事態が多くの所で発生しました。
 このような事態に対し、国際社会はセルビアを説得しますが、なかなか成功せず、結果的に、アメリカとNATO軍は、セルビアの首都、ベオグラードを始め、たくさんの都市に無差別爆撃を行い、セルビアの戦意喪失を狙いました。
 セルビアは爆撃により多大の経済的損失をこうむり、インフレが進むとともに人民は職を失い、武器の購入もままならず、また、クロアチアにいるセルビア人への援助も出来なくなり、1995年、戦闘は終結しました。それにより、クロアチアにいたセルビア人は大量の難民となり、セルビアに逃げ帰りました。その結果、クロアチア内のセルビア人は、現在、5%弱になっています。



 今日はオパティアからトロギールまで、約450km、アドリア海に沿って南下してゆきます。途中、ザダルの旧市街に寄り、昼食と市内見学です。



オパティアからザダルへ

 オパティアでは、ホテルに泊まっただけで市内などの見学はありませんでした。海の見える美しい街で、周囲にはたくさんのホテルが建っていました。
 アドリア海のクロアチア領には1千もの島々が点在しています。いずれも石灰岩がむき出しの痩せた島のようでした。幸い今日も晴天で、アドリア海は驚くほど凪いで居ました。



ザダル旧市街
 
 ザダルは海に面した美しい街ですが、驚くほどたくさんの歴史を秘めています。最近では、セルビア軍に攻められ、建物にはたくさんの銃痕が刻まれていました。その後、平和が戻り、街は復興されています。
 旧市街は頑丈な城砦で囲まれ、海に面した海の門から中に入ります。市内には幾つもの教会があり、円筒状の聖ドナット教会が有名です。この教会は西暦800年頃のドナット時代に建設され、その前にはローマの遺跡がごろごろと転がっていました。そこで土産物を打っている人たちも居ました。



聖ストシャ大聖堂の鐘楼
 
 聖ドナット教会に隣接する聖ストシャ大聖堂の鐘楼に登ってみました。旧市街の美しい家並みを見下ろせました。



ザダールからトロギールまで
 
 旧市街見学後、再び、アドリア海にそってトロギールまで約125km南下しました。
 ホテルからは凪いだアドリア海と湾を挟んで向う岸にはたくさんの家が見えます。夜景も奇麗でした。


         
4日目 トロギール観光(世界遺産)、

         スプリト市内観光(世界遺産)
 
 朝食後、すぐ近くの世界遺産トロギール観光です。その後、35kmバスに乗り、世界遺産スプリト市内観光です。
 昼食後は、アドリア海に沿って約200km南下し、宿泊地ドゥブロヴニクには午後8時30分到着です。



世界遺産トロギール観光
  
 世界遺産になっている旧市街は300m*500mの小さな島で、1本だけある橋が陸地と結んでいます。橋を渡り、城壁の北門をくぐると、市庁舎広場に出ます。今日は何かお祭りでもあるのでしょうか、親子連れの人たちで、広場は大変賑わっていました。
 15世紀ごろ作られた建物が多いそうで、路地は狭く、迷路のようになっていますが、なにぶん狭い街で、迷うことはなさそうです。


 聖ロヴロ大聖堂の釣鐘はこの地をヴェネチアが支配していた15〜16世紀に作られ47mもあります。
 旧市街全体を見下ろすことが出来ました。


 島にある小さな門を出ると、椰子の木が植えられた南国ムードが漂う海岸通りに出ます。
 島の端に15世紀にたてられたカメルレンゴの要塞が見えます。これらはオスマン・トルコ帝国の攻撃に備えるために作られたそうです。



世界遺産 スプリト観光  (古代ローマ遺跡と市民生活が一体になった街)
 
 スプリトは人口20万を抱えるアドリア海沿岸の最大の都市です。その海岸べりに古代ローマ時代に作られた立派な城壁を持つ城があり、その中にたくさんの民家が建てられています。このお城は西暦3世紀末、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによって作られました。皇帝は生まれ故郷のスプリトの余生を送るため作ったそうです。
 皇帝の死後、お城は廃墟同然となりましたが、数100年後、人々がお城の中に住みつくようになったそうです。
 お城には東西南北の4つの門がありますが、いずれもかなり狭く、海岸側の南門から中に入ると、たくさんに土産物屋があり、驚かされます。
 門の外にはスプリトに住む人たちの野菜市場がありました。こちらを旅していると、青空の野菜市場がたくさんあります。家賃が不要な分、安くなるのでしょうが、雨の時はどうするのでしょう。


 門をくぐって城に入り、地下へ向かう階段を降りると、たくさんの地下室があります。昔は、この南側が海に直接面し、船着き場になっていたそうです。潮の満ち引きにより、地下は海水で埋まったそうです。城のかには小さな住宅が非常にたくさん乱雑に造られ、人が住みついているようでした。
 ローマ遺跡広場では、幾つものお土産屋が青空市場を開いていました。


 お城の中にある大聖堂の鐘楼に登ってみました。城壁とその中に作られた民家を見下ろせます。



スプリトからドゥブロヴニクへ南下
 
 スプリトで昼食後、アドリア海に沿ってドゥブロヴニクまで約200km南下します。
 さすがサッカー王国クロアチアです。スプリトには立派なサッカー競技場がありました。
 ドゥブロヴニクに行くには、そこが飛び地になっているため、約10kmほどボスニア・ヘルツゴビナ領を通る必要があります。ただし、パスポート検査は非常に簡単でした。
 バスはボスニア・ヘルツゴビナ領内のスーパーマーケットに立ち寄りましたが、安いこともあって、たくさんの人がお土産などの買い物をしていました。
 アドリア海沿岸は一般に平地が少なく、すぐに石灰岩の山にぶつかりますが、ところどころ、平地が現れます。おもな産物はミカンだそうです。


       
5日目 ドゥブロブニク観光(世界遺産)、

     モンテネグロのコトル観光(世界遺産)


ドゥブロブニク

 
 ホテルは、新市街の海の見える小高い所にあり、朝から、雷混じりの強い雨が降っていました。昨日までの晴天が嘘の様です。
 アドリア海の真珠と言われるこのドゥブロブニクには、たくさんの観光客が来るのでしょう。窓から見ていると、大きな観光船が入ってきて、たくさんのバスが出て行きました。
 このドゥブロブニクには、今から 28年前の1981年に、光ファイバの標準を決める国際会議のため、1週間ほど滞在したことがあります。
 その時のホテルは海に面しており、ホテルの所有する海水浴場を見下ろすことが出来ました。その時は、大変驚ろきましたが、たくさんの男女が衣類を何も着けず真っ裸で泳いだり、岩に登ったり、バレーをしたり、パラソルの下でトランプをしたりして遊んでいました。そこには、女性の方が男性よりもたくさん居たようでした。
 西洋の女性は、奥ゆかしい日本の女性とは異なり、裸になるのが好きなようです。地中海沿岸のカンヌやニースの海水浴場は、トップレスが当たり前で、真っ裸で日光浴を楽しんでいる女性もたくさんいます。
 ここの海水浴場の入口には、パンツなどの着衣禁止とカメラ禁止の看板が立っていました。ヌーデストになるのが嫌なお客には別の場所に普通の海水浴場がありました。
  日本の温泉宿が野天風呂を持って居るように、ここのホテルは、どこもそのような海水浴場を持っていて、それが観光の売りになっても居たようす。ヨーロッパ中からたくさんの観光客がこの海水浴場を訪れ、ヌードになり、バカンスを楽しんでいました。
 当時、ソ連などの社会主義国家では、言論、芸術、職業など、いずれも自由が厳しく制限されていて、暗いイメージを持っていましたが、社会主義国家であるユーゴスラビアでは、そういった民衆の不満を解消する目的で、ヌーデストの海水浴を認めてるとかいう話しもありました。
 ホテルから旧市街の城壁まで、パスで坂の多い美しい街中を通り、約10分でした。



旧市街に入る


ピレ門
 

 旧市街はアドリア海に突き出た500m四方の小さな街で、高く厚い城壁に囲まれたこの要塞都市は1979年、かなり早い時期に世界遺産に登録されました。
 陸地から城砦に入るには橋を渡りピレ門を通らねばならず、この橋も敵の攻撃時には跳ねあげられ、城を守るように作られています。



プラツァ大通りと脇道

 この小さな島に最初に住みついたのは対岸のイタリア半島からやってきた移民の末裔だと言われています。ここの人たちは貿易により暮らしを立てていました。この島はあまりにも小さく、食べ物は陸地から買うしかありませんでした。当時、下の写真の大通りの左側は陸地側で、移民が住みついたのは右側で、大通りは海だったそうです。
 貿易により街が発展すると、陸地と隔てていた海が埋め立てられ、いろいろな公共施設が作られました。
 伝染病を予防するため、きれいな水が山から引き入れ、誰でも自由に水を使用できるようにしました。船員が疫病を持ち込まないよう、ヨーロッパでは初めての検疫所が作られました。
 住民は自治のための憲法を作り、自由と平等に暮らすのを市民の最大の権利とし、司祭は1カ月ごとに交代で行い、報酬はなしとしました。
 しかし、このバルカン半島は、ヨーロッパのキリスト教国とアジアのイスラム教のオスマントルコ帝国が交わる、民族の火薬庫ともいわれる危険な場所でした。住民にとって、自由への最大の敵は戦争でした。
 立派な城壁を持つ城塞都市であっても、強大なオスマントルコ軍が攻めてきたら、ひとたまりもありません。ドゥブロブニクの人たちは、オスマン帝国やセルビア王国と協定を結ぶなど、知恵と努力により、それを回避しました。
 この様な小さい国が生き延びられたのは、奇跡とも言われています。




内戦で破壊された街

 わずか15年ほど前までは、旧市街の後ろの標高412mの小高い山に、ロープウェイを使用して簡単に登れたそうです。この山からは絶景のパノラマを楽しめ、観光客で賑わっていたそうです。
 しかし、1991年、ユーゴスラビアから独立しようとするクロアチアに対しユーゴスラビア連邦軍(セルビア軍)が武力攻撃を開始しました。セルビア軍は山の上のロープウェイ駅などを徹底的に破壊した後、そこからこの街に砲弾を撃ち込み街を破壊しました。
 現在、街はすっかり復元されましたが、このロープウェイはそのままになっています。この山には地雷がたくさん埋められていて、復旧が難しいのだそうです。
 この山の破壊された駅を記念碑と保存するか、復元するかは住民の意思により決められるそうです。
 広島やドレスデンの人たちは、戦争の悲劇を残して後世に伝えようとしていますが、ドゥブロブニクでは住民が街を完全に復元する道を選んだそうです。
 旧市街の入口には、砲弾によって壊された家屋の地図が掲げられていましたが、戦争の悲惨さを示す写真などはどこにもありませんでした。




狭い路地

 どこの旧市街にもあるように狭い路地が旧市街を横切っています。ただ、ここは迷路でなく、見通しが良く作られています。
 この狭い通路は、中世以来、住民たちの生活の場として、今も使用されています。この路地に、日常の生活に必要な建物など全てがあるそうです。



貿易港

 この貿易港には、ヨーロッパ初の検疫所が作られ、港に船で入った人は、40日間、そこに入れられ、病原菌を持ちこんでいないかどうか、観察されたそうです。今も入国検査でクアランティン(Quarantine)がありますが、40を意味するQualantine はそこから来たそうです。



聖ブラホ教会とセルビア正教会
 

 大通りの終点に大きな聖ブラホ教会が建てられています。聖ブラホは、ドゥブロブニクの守護神と言われています。この教会もすっかり復元されていました。
 ドゥブロブニク市内にはセルビア正教会の建物もあり、毎週、日曜日には、ここに住むセルビア人で賑わうそうです。
 山から打ちこまれた砲弾は、ここに住むセルビア人にも無差別に降り注がれました。ここで生まれ育ったセルビア人は、砲弾の中、ここを攻撃する敵に対し、クロアチア人と共に協力して戦いました。
 ここに住むクロアチア人の中にも国粋主義者がいなかった訳ではありませんが、良識あるクロアチア人は、戦争後もセルビア人を守ったそうです。
 ここの住民は、この攻撃の前まで、自分がクロアチア人であるか、セルビア人であるかを意識したことは無かったと述べています。


 城壁の中にはオレンジ色の屋根と白い壁の建物がびっしりと建てられています。街を囲む城壁の上を通って周囲を一周することが出来ます。その長さは約2kmで、私たちも、一周してみました。約1時間掛りました。壁の上に作られた道の幅は約1m程度で、一方通行になっていました。
 内戦によって街は粉々になるほど破壊されましたが、戦争が終わると住民たちはすぐに街の復旧に取りかかり、また、世界中からボランティアが集まり、現在は非常に良く復元されています。
 まだら状の古い色をした瓦も、新しく赤い色の瓦も、ともに、内戦前のように復元されています。
 ガイドさんが、新しいのは復元された瓦で、まだら色のは破壊されぜに残った瓦と言っていましたが、18年前にここを訪れた時の写真を見ると、赤い瓦も、まだら色の瓦もありましたので、瓦もかなり正確に復元されているようです。
 もっとも、瓦屋根はいずれ全部取り換えられますから、戦争の悲惨の記念碑にはなりにくいでしょう。



モンテネグロ
 
 モンテネグロはセルビアと共にユーゴスラビア共和国を作っていましたが、2006年にセルビアから分かれ、ついに独立しました。
 国土はボスニア・ヘルツゴビナ、セルビア、アルバニアと接し、クロアチアともわずかに接しています。
 国土面積は日本で一番小さい香川県よりも小さく、人口も62万人と日本で人口の一番少ない鳥取県と同じぐらいの小さい国です。
 宗教も言語もセルビアと同じであり、内戦の時代もセルビアと共に行動をしていましたが、モンテネグロ人よりもセルビア人が有利になる例が多いとの感情から、モンテネグロはセルビアと別れ独立しました。
 モンテネグロは歴史的にみるとモンテネグロ王国のあったところです。
 独立国家である限り、大統領や議員、内閣、裁判、警察、防衛、外交、など、多くの仕事が必要であり、教育も教科書も、新聞も、テレビもどのようになっているのか興味があります。人口が少ない分、優秀な人材を集めるのは難しく、国際競争もいろいろと難しいものがあるでしょう。
 通貨は独自の通貨を持たず、以前、ドイツマルクと使用していましたが、マルクがユーロになった段階で、ユーロを使用するようになったそうです。あまりにも小さく経済力のない国が独自通貨を持つのは困難なのでしょう。



モンテネグロ

 午後はモンテネグロのコルト(世界遺産)観光でした。コルトはドゥブロブニクから190kmも離れており、往復5時間もかかりました。見学時間は約1時間でした。国境越えは簡単な検査だけでした。



コトル(世界遺産)観光

 コトルは入江の奥深くにあり、海からの荒波から守られ、港町の商業都市として、また、文化都市として栄えて来ました。
 街は城壁で囲まれた城塞都市で、街の後ろ側は断崖に近い山に覆われ、そこに城が築かれ、万一、海から攻められたときは、山の城に逃げ込み、そこから戦えるようになっています。この様な地形ゆえに、トルコ軍や海賊から街を守ることができたそうです。
 コトルは10世紀、ビザンチン帝国の自治都市となり、12世紀から14世紀ごろはセルビアの自由都市となり、15世紀の一時期は独立都市として栄えましたが、その後はベネチア共和国の支配下にはいりました。
 ナポレオンがベネチアを支配すると、コトルもその支配下に入り、ナポレオンが失脚すると、オーストリアの支配下に入りました。
 1918年、ユーゴスラビア連邦が成立するとそのその中の一都市となりました。
 城塞の中には、長い歴史を映すように、カトリック教会やセルビア正教会など、幾つもの教会が建てられています。街中の道は細く複雑ですが、とても小さな街で、迷うことは無さそうです。
 後ろの山に登るには1ユーロの入場料が必要でした。時間的制約から、街を見下ろせる所まで登り、途中で引き返すこととなりました。


            
6日目 モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)世界遺産、観光

ボスニア・ヘルツェゴビナ


 ボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビア、クロアチア、モンテネグロに接し、わずか20km程度ですが、アドリア海にも面しています。ただし、実質的には港を持たない内陸国になっています。
 面積は九州よりすこし広く、人口は400万人と静岡県と同じ程度で、比較的小さな国にランクされています。
 首都はサラエボで、第一次世界大戦の引き金を引いた都市として良く知られています。このサラエボでは冬季オリンピックが行われています。また、この地は、ローマ・カトリック教と正教会の布教の最前線で、常に争いの絶えなかった地域でも有名です。
 15世紀の半ばごろ、北部ボスニアと南部のヘルツェゴビナはオスマントルコの支配下に入り、キリスト教勢力から弾圧を受けていた人たちは、イスラムに改宗するとともに、トルコなどからたくさんのイスラム教徒が入ってきました。その結果、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に比べ、トルコ文化が栄えました。
 16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルグ帝国やベネチア共和国と戦争をした時は、この地が前線地帯となっています。
 19世紀後半、オスマン帝国が衰退すると、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の争いの場となります。
 20世紀に入り、第二次大戦が勃発すると、ナチスの傀儡政権クロアチア独立国がユダヤ人、セルビア人に激しい弾圧を与え、各地で強制収容所送りにし、数十万人の規模で殺害されたと言われています。これに対し、セルビア人はクロアチア人やボシュニャク人の大量虐殺をおこないました。
 1946年、ユーゴスラビア連邦が成立するとその構成国の一つとして、ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が成立します。
 その後、チトー政権下で人種間の融和が進み、幾つもの人種が混じり合い、民族間の結婚なども進んでゆきました。
 1991年、近隣のスロベニアやクロアチアが独立すると、ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の機運が高まって行きます。
 イスラム教徒中心のボシャニャク人やローマ・カトリック主体のクロアチア人は独立を望み、セルビア人は反対しますが、多数派を占めるボシャニャク人とクロアチア人が独立を宣言しました。しかしクロアチア人も多数派のボシャニャク人による支配を好まず、3つの人種が独自の議会を持ち、武装を整えて行きました。
 3つの人種はまさに陣取り合戦の様相を示し、互いに異民族を廃止し、他民族に対し、虐殺や見せしめを行い、民族浄化を進め凄惨な争いが続きました。
 この戦いはアメリカ主導により、1995年末に終結するまで、3年半も続きました。その間、アメリカやNATO軍はセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人勢力に対し、徹底的な空爆を行い、戦意を失わせさせました。
 現在、ボスニア・ヘルツェゴビナの民族構成は ボシャニャク人48%、セルビア人37%、クロアチア人14%となっています。
 ボシャニャク人の多くはイスラム教、クロアチアの多くはローマ・カトリック教、セルビア人の多くはセルビア正教です。
 国土はムスリム人とクロアチア人による「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」(面積比51%)と、セルビア人による「セルビア人共和国」(面積比49%)という独自性の高いふたつの地方政体によって構成されています。


 ドゥブロブニクを朝の8時に出発し、約140km、約2時間30分かけて、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタル向かい、市内を観光します。
 モスタルで昼食後、約350km、約6時間かけて、クロアチアのプリトヴィッツェに向かいます。



モスタル観光

 モスタル市内の中央を、さほど大きくないネレトヴァ川が横切り、そこに石で出来た橋が架けられています。
 このモスタルには、内戦が勃発する以前、3つの民族が仲良く暮らしていました。幾つものモスクや教会が建てられ、平和な日々が続いていました。そして、そこに架けられた橋は民族を結んでいました。
 このスタリ橋と呼ばれる石の橋は、1566年に作られ、トルコ語の古い橋という意味から、この街はモスタルと呼ばれるようになりました。
 1992年、内戦が勃発すると、この街にユーゴスラビア連邦軍が押し寄せセルビア人がそれに加担しました。ここに住むイスラム教徒とクロアチア人は、攻めよせるセルビア軍に対し協力して戦いました。
 その後、セルビア軍が撤退すると、今度はイスラム教徒とクロアチア人が戦争を始めてしまいました。川を挟んで互いに相手を攻撃したそうです。
 街には至る所に弾丸の後が見えます。徹底的に破壊された家屋もたくさん放置されています。
 川の両側を結んでいたスタリ橋は、この時、破壊されてしまいました。450年もの間、両側を結んでいたこの美しい橋が、わずか10数年前の内戦で破壊されてしまったのです。
 長い間、民族間の融合が進み、婚姻関係も進んでいる中、兄弟同士、家族同士での戦いにもなってしまいました。戦っている人たち同士、なぜ戦うのか、分からなくなったそうです。

 今は、観光客がたくさんこの街を訪れていますが、そもそも土地が痩せていて、あまり豊かでなかったこの地域の失業率は50%にも達し、世界的にも貧しい国にランクされています。戦争を起こし、お互いに殺し合い、施設や家屋を破壊しあっていては、経済活動もままならず、貧しくなるはやむを得ないでしょう。



 下の写真の最初の小さな橋は、石橋の強度を確かめるために作られたそうです。
 この地域の石は主に石灰岩でできており、強度が弱く、それでも橋が崩れないよう、かなり極端なアーチ状に作られています。当時の技術の高さがしのばれます。
 内戦の終了後、崩れ落ちた石を集め、橋は再建されましたが、街にあったたくさんの文化財は、盗難にあったりして失われたそうです。



モスタルから再びクロアチアへ

 来た道を通って再び海岸へ戻り、スプリト近くまで海岸を北上し、そこから高速道路で今夜の宿泊地、プリトヴィッツェへ向かいます。途中、かなり強い雨に会い、高速道路は通行止のため、一般道で迂回したりし、ホテル到着は午後8時ごろになってしまいました。



           
7日目 プリトヴィッツェ湖群
        国立公園(世界遺産)

 日本からクロアチアに着いた時は真夏のような暑さでしたが、この数日、急に寒くなり、近くの山頂にはうっすらと雪が積もり、紅葉も美しくなりつつありました。昨日まで続いた雨も上がり、今日は秋晴れです。
 スロベニアやクロアチアの多くは石灰岩地域で、石灰岩の上を流れる水は、数千年もの間、ところどころに石灰華を作り、それらが集まり、自然のダムを作り出しました。このようにして、美しい湖や滝、大きな洞窟が作られました。
 午前中はガイドさんと一緒に散策でした。道はきれいに整備され、地図を片手に好きな所を歩けるようにもなっています。

       


 公園中央の大きな湖には連絡船が走っており、自由に乗り降りすることが出来ます。水はかなり透明で、ますの泳いでいるのが浮き出したように良く見えます。
 



午後、自由散策

 昼食後は、各自自由散策でした。私たちはたくさんある湖に沿って、上流の方へ歩いてゆきました。沿道には無料のバスが頻繁に走っており、疲れたらそれに乗って目的地にも行けるようになっています。
 結局のところ、帰りもバスに乗らず歩いて雰囲気を味わいながら集合場所まで戻ってきました。



屋根裏部屋

 この地で2泊しましたが、屋根裏部屋に泊まることになりました。海外旅行で屋根裏部屋に泊まったのは初めての経験でした。体を起こすと、屋根に頭をぶつけてしまいます。うっかり起き上がることも出来ません。小さな窓がありますが、天井近くにあり、外も覗けません。ただし、風呂などはかなり立派に作られていました。
 私たちのツアー客は全員、屋根裏部屋でした。当然ながら、普通の部屋はお客で一杯のようでした。
 観光地とは言え、不便な所にあるホテルなので、部屋がなかったのかもしれません。とにかく、たくさんの日本人が何台ものバスで押し寄せて来ていましたから、運が悪かったのでしょう。



        
8日目 リュブリャナ自由散策

 プリトヴィッツェを朝9時に出発し、教の宿泊地であるスロベニアの首都、リュブリャナへ向かいます。そこまで、約320km、約5時間30分かかります。到着後、市内自由散策です。



市内散策

 リュブリャナはスロベニアの首都ですが、人口は27万人と比較的小さな首都です。ガイドさんから街の説明があった後、各自自由散策ですが、大方の人はガイドさんに案内されて回りました。私たちもガイドさんと共に山の上にあるリュブリャナ城を見学し、その後、街中を散策しました。
 教会も覗いてみました。



リュブリャナ城

 小高い山の上に城が作られています。城にはケーブルカーに乗り行くことが出来ました。



      
9日目 ウィーン経由成田へ
 いよいよ今日は成田に向け出発です。リュブリャナを午前7時40分に出発し、オーストリアのクラーゲンフルトまでバスで移動し、そこから飛行機でウィーンに向かい、飛行機を乗り換え、成田に向かいます。
 クラーゲンフルトを11:40に出発し、ウィーンには12:35に到着し、14:00発のオーストリア航空で成田に向かいます。成田までの所要時間は約11時間で、成田到着は朝の8時でした。



スロベニアからオーストリアへ国境を通過

 スロベニアのリュブリャナからウィーンまで、高速道路で結ばれています。両国ともEUに加盟しており、国境での検査はありませんでしたが、高速道路の料金所がありました。ほとんどの車はETCを付けているようでした。


クラーゲンフルトからウィーンへ
 
 55分の飛行ですが、その間、ほとんど、山の上を飛んで行きました。山は良く開墾され、たくさんの牧場が作られていました。





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