タイ王国の観光とゴルフ 10日間
2013年2月12日〜21日

 日本では毎日、日本海側の大雪の話と、中国からのPM2.5が話題になっています。青森県の酸ヶ湯温泉では、積雪が5m以上を越え、観測史上最高の積雪だったようです。
 この寒さを避け、暑いタイの観光も良いかも知れないと思いたち、出かけてみました。
 10日間と言っても、行きと帰りに一日ずつ掛かりますから、実際の観光は8日間でした。
 タイは現在乾季で、冬に当たりますがそれでも毎日、日中は35度Cになり、日本との急激な気温の変化で、体調の心配もしましたが、特に問題はありませんでした。
 ゴルフも2回ほど楽しみました。暑い中でのゴルフでしたが、異国でのゴルフもそれなりに面白さがあります。また、タイ料理が、こんなに美味しいということを発見したのも、今回の旅行の成果の一つでした。
 2011年11月、大洪水がアユタヤ周辺やバンコク北部を襲い、大被害を与えましたが、今は全くその面影を見ることはありませんでした。なお、バンコク市内の被害はほとんどなかったそうです。
 タイ国内の日本車の比率は88%と日本に居るより日本車が多いのには驚きます。それに、日本と同じ左側通行ですから、なんとなく安心感があります。タイにいると、日本人はよく頑張っていると感じます。
 このところ、中国の大気汚染の酷さがテレビでよく放映されていますが、その地図をよく見ると、バンコクもかなり酷そうで心配していました。実際に来てみると、やはり、バンコクの大気汚染にひどさに驚きましたが、1週間もいると、全く感じなくなって、それが普通に感じてきました。誰も気にしていないよです。たしかに、中国よりはだいぶ良いようです。

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観光内容 歩数
1日目 2月12日 成田よりバンコックへ  5,587
2日目 2月13日 バンコク市内観光 13,621
3日目 2月14日 ゴルフ (Unico Grande Golf) 18,428
4日目 2月15日 アユタヤ観光とバンパイン宮殿観光。行きはクルーズ 13,320
5日目 2月16日 象乗り、筏下り、泰緬鉄道乗車と戦場にかける橋観光 12,606
6日目 2月17日 ダムヌンサドアク水上マーケットと線路市場メークロン 11,735
7日目 2月18日 パタヤ海岸とラン島で海水浴 12,865
8日目 2月19日 ゴルフ (Unico Grande Golf)、Admiral Hotel 周辺散策 23,054
9日目 2月20日 トリムック宮殿や水晶寺、中華街など散策 10,621
10日目 2月21日 バンコクから成田へ。帰国 4,071


             

1日目 成田からバンコクへ

 バンコク行きの飛行機は、成田発18:35、バンコク到着は23:45です。飛行時間は約7時間でした。座席はエコノミープラスであったため、多少、前席との間に余裕があり、パソコンを開くことが出来ました。
 ホテル到着は午前1時ごろでしたが、バンコクの市内の賑やかさには驚きました。道路は人でかなり賑わっています。
 以前、タイに行った時のタイバーツの残りがかなりあったので、タイバーツへの変更は必要ありませんでしたが、成田で交換するよりも、タイでした方が断然有利でした。街中にはたくさんの外貨交換所があり、何時でも交換できます。なお、成田での交換レートは1バーツ 3円57銭でしたが、バンコック市内では1バーツ3円23銭でした。
 明日はHISによる市内観光で、出発時間は午前7時と、睡眠時間はわずかしか取れません。到着早々、すぐに寝ることにしました。



Admiral Suites

 今日の宿泊を含め、9日間、同じホテルで過ごします。
 ホテルは、家内がインターネットで口コミ情報などを調べ選んだようですが、スクンビット通り近くの Admiral Suites で、朝食付き2名一泊の料金は約7000円でした。大きなホテルだと、入り口から自分の部屋に行くのに時間が掛かりますが、この規模のホテルだと、日本のビジネスホテル並みで、フロントの女性ともすぐに顔見知りになり、連泊には便利です。
 日本人の利用が多いようですが、フロントでは片言の日本語しか通じません。
 部屋は十分に広く、電子レンジや冷蔵庫など、必要なものはほとんど備え付けられており、プールや運動器具が置かれた部屋もあります。WiFiも無料です。大きなホテルだとインターネットが有料になる場合があり、連泊だと馬鹿にならない費用が発生します。
 NHKの衛星放送も1チャンネルだけでしたが受信可能でした。
 以前、仕事で利用した立派なホテルだと、毎日、部屋に戻るとバナナやマンゴなどのフルーツボックスが置かれていましたが、このホテルでは、水が2本、冷蔵庫に入れておいてくれるだけでした。あまり贅沢は出来ません。
 今回は、毎朝6時半ごろの出発なので、ホテルでの朝食を取れませんでした。フロントにお願いしたところ、毎日夜8時ごろ、次の朝の朝食と全く同じメニューを作って部屋に持ってきてくれました。
 なお、ホテルの入り口にはセブンエレブンやファミリーマートがあり、お酒を含め、飲み物、おやつなどには不自由しませんでした。


 ここで、少し、タイ王国についてまとめてみました。

 赤は愛国とタイ国家そのものを意味し、白は仏教を意味し、青は国王を意味するそうです。
 なお、数年前からタクシン派と反タクシン派が厳しい政治的争いをしていますが、反タクシン派がプミポン国王のシンボルカラーの黄色のシャツを着ているのに対し、タクシン派は、国旗の愛国を示す赤色のシャツを着て戦っています。



 タイの正式名称はタイ王国ですが、日本やイギリスと同様、立憲君主制国家になっています。
 国土面積は日本の約1.4倍ですが、人口は6,500万人と日本の約半分です。
 上の地図にある様に、タイはミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシアと接しています。
 周辺のミャンマーやラオス、カンボジア、および南部のマレーシアとは山脈や川でなどで境界が作られており、タイの中心にはチャオプラヤ川が流れ、肥沃な農業地帯を作っています。
 気候は5月から10月までの雨季と、11月から4月までの乾季に分かれ、バンコクのいちばん暑い4月の平均最高気温は36℃で一番涼しい12月の平均最低気温は21℃ですが、年間を通じ、ほとんど変わらないようです。
 バンコクの人口は630万人とタイ全体の約10%を占めていますが、タイ第二の都市、チェンマイの人口はわずか16万人ですから、バンコクが断トツのいちばん大きな都市になっています。
 タイの経済は、日本と非常に強く結びついています。タイの乗用車の88%は日本車であることからも分かります。ただし、経済が好調だとはいえ、GDPは日本の6%程度であり、中国の5%弱になっています。
 とにかく、中国に行けば分かりますが、中国の人口はタイの20倍もあり、中国には北京、上海、南京、などバンコク規模の都市が数十もあるのですから、対等に比較する訳には行きません。
 タイは良く知られた仏教国であり、人口の95%が仏教徒で、全国におよそ1万8千の仏教寺院があり、僧侶の数は14万人もいます。
 タイが国としての体裁を整えたのは、13世紀前半に成立したスコータイ朝で、15世紀にはアユタヤ朝に併合されています。現在のタイ文字はスコータイ朝の時代に作られています。
 歴史的にみると、タイは他国に支配された歴史がなく、東南アジアの中では特異な存在です。
 日本は幕末、外国からの支配の恐怖にさらされましたが、朝廷も幕府も、主張は違うものの、その恐怖に対し、真剣に対応し、幕府はアメリカからの開国に調印し、明治時代に入ると、世界の5大大国にまでにもなっています。
 タイも、西欧からの支配の恐怖にさらされていましたが、当時のラーマ4世は西洋の科学や文明に関心を抱き、開国政策を取るとともに国家の近代化に勤め、多数のヨーロッパ人の顧問を招きました。
 マーラ4世がイギリス人家庭教師を招き、100名以上も居る自分の子供に西洋の文化や科学技術などの教育を施し、列強諸国としたたかな外交をするようになった経緯は映画「王様と私」にも描かれています。
 しかし、当時、フランスはベトナムやカンボジアを属国とし、タイにも軍隊を侵攻させ、タイ国からカンボジアとメコン川東部のラオスを奪い取っています。
 第2次世界大戦がはじまる少し前の1941年5月、日本により、フランスとの調停が行われ、タイは奪われていたカンボジア西部の一部とメコン川西岸のラオスのすべての領土を回復しています。以来、日本とタイとの関係は親密となり、日本軍がアメリカと戦争を開始すると、日本軍の国内通過を許しています。また、1942年1月にはアメリカ、イギリスに対し、宣戦布告を行っています。しかし、1944年、ピブン親日政権が総辞職すると、1945年には宣戦布告の無効を宣言しています。
 1946年にはイギリスと終戦協定を締結し、以来、イギリスとは深い関係を持つようになっています。
 タイに接するラオスやカンボジア、また、その東の国ベトナムは共産主義国家になっており、アメリカは、タイの共産主義化を避けるため、経済的にも援助を続けてきました。
 農業国であったタイは1980年代から90年代の初めにかけて、海外からの投資によって工業化が進められ、年間経済成長率が9%を続けていましたが、97年に不動産投機を中心としたバブル経済が崩壊し、通貨バーツが大暴落しアジア通貨危機の発端になりました。
 しかし、IMFからの金融支援により、経済は発展に向かい、2003年にはIMFへの返済を完了しています。
 タイは立憲君主制を取り、国王の権力は国家統合のシンボルであり、直接的な支配権を持っていませんが、政治には少なからぬ影響力を発揮しています。
 第2次世界大戦後、タイでは何度も軍によるクーデターが発生し、軍部による支配が続きましたが、1991年を最後にクーデターは途絶えていました。しかし、まだ、記憶に新しいのですが、2006年、タクシン政権化で軍事クーデターが発生しています。
 以来、現在に至るまで、タクシン派と反タクシン派の争いが続いており、2008年の空港占拠事件当時は、黄色の服を着た民主主民連合と、赤い服を身に付けたタクシン派の反独裁民主戦線のデモは、まだ我々の記憶に新しく、日本の外務省は、黄色や赤の服を身に着けると危険だと、今も警告しています。
 現在の国王はラーマ9世で、会社の玄関や、入り口には必ず国王と王妃の写真が飾られています。なお、国王を侮辱するような行動をとると不敬罪で法律により罰せられるそうです。
 タイ王国と日本の皇室の関係は非常に深く、それが日本との親密な関係の一因ともなっています。
 2011年11月の大洪水はタイ全体の3分の1にも影響を与え、かつ、進出していた日系企業460社が被害を受け、その被害額は3兆5000億円にも及んだと言われています。特に電子部品関係が多く、一時はハードデスクやプリンターが日本でも品薄になったほどでした。現在、工業団地の周りには高い壁が築かれて、回復しつつありますが、約7割の企業がこの地を捨て、バンコクの東部に新たな工場を築いています。まさに、沸騰地域が出現しつつあります。
 その他、尖閣問題もあり、日本からの投資額は中国への投資額の2倍になっており、日本との結びつきはますます強くなっています。
 タイは ASEAN10の加盟国(タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナム、カンボジア、ブルネイ、フィリッピン、マレーシア、シンガポール、インドネシア)の中で経済的にもその中心となっており、2015年には関税が撤廃され、自由貿易圏が誕生し、その人口は6億人にも達しますから、タイとの深い経済関連は今後ますます大きくなると思われます。
 最近、反日感情を持つ国と親日感情を持つ国の両極化が進んでいるように感じますが、これらアセアンの国々は総じて親日的であることも上げられます。
 人件費で見ると、もはや、タイと中国はほぼ同じで、アセアンの他国よりはかなり高くなっていますが、中国と比べ、労働争議が断トツに少ないという利点もあるようです。


       

2日目 バンコク寺院観光 (ワット・アルン、ワット・ポー、エメラルド寺院と王宮)

 

 HISの市内観光を手配してあり、朝の7時に、我々のすぐ近くの Imperial Queen's Garden ホテルに集合です。
 ホテルの朝食は6時半からでしたが、十分間に合いました。
 バスは大型でしたが、参加者は合計11名でした。
 ガイドさんは日本語を話すタイ人ですが、聞き取りにくい日本語で、あまり上手ではありませんでした。
 左の地図は我々のホテルと、今回訪問するお寺や王宮です。
 右はその拡大図ですが、まず、船乗り場で船に乗り、暁の寺と呼ばれるワット・アルンを見学し、その後、ワット・ポーとエメラルド寺院と王宮の観光です。
 観光終了後、ホテルでバイキング料理を頂き、その後、2ヵ所ほど、ショッピングに連れて行かれました。観光バスに乗ったお客は、誰もつれて来られるのでしょうか、ものすごく混んでいました。買い物の興味のない人は、廊下の椅子に座ってバスの出発を待っていました。私たちも同じでした。
 いずれにせよ、ここ2か月ほどで1米ドルが69円から93円と26%も価値を落としたので、ショッピングは日本で買った方がまだましです。ガイドさんもそれを承知で、日本で買った方が安いですよとか言っていました。
 ホテルの帰ったのは午後3時ごろでした。

 



船乗り場

 船乗り場は異様な匂いがします。イカなどの乾物屋さんが軒を連ねていました。




ワット・アルン (暁の寺)
 
 アルンとは暁を意味するそうです。この寺がいつ頃作られたかは不明ですが、当初は小さな寺だったそうです。
 この寺の象徴は高さ75mもある大仏塔で、チャオプラヤ川の沿岸に建てられ、かなり遠くからも見ることが出来ます。この大仏塔はヒンドゥー教のシヴァ神の住む聖地、カイラーサ山を形どったものだとされています。表面には無数の陶器の破片が埋め込まれ、陽光を受けてキラキラと輝きます。
 この大仏塔は19世紀、ラーマ2世のころから作られはじめ、ラーマ3世の時に完成しています。大仏塔の周りには4つの小塔が取り囲んでいます。近くで見ると、自分の位置が分からず、小塔が幾つあるかなどはよほど注意していないと全く分からなくなってしまいます。



船からの眺め

 このお寺は川からの眺めが最高かも知れません。あまり近づくと、全体が分からなくなります。



本堂

 本堂にはたくさんの仏像があるそうですが、まだ朝早かったためか、門が閉まっていました。



 入り口からはお寺の全体を見ることが出来ます。




大仏塔

 かなり上まで登ることが出来ますが、なにぶん、75mもあります。とりあえず、第一段目の回廊まで登ってみました。家内は下から見上げるだけでした。ほとんどの人は、この回廊まででその上には登らなかったようです。
 回廊を一周すると、周りの小塔を見下ろすことが出来ます。



小塔

 合計4つありますが、写真のような小塔は2つあります。




 対岸には王宮や寺院が見えます。


 再び、船に乗り、対岸まで戻りました。チャオプラヤ川には沢山の植物が浮いていました。



ワット・ポー (Wat Pho 寝仏寺) 観光

 1788年、ラーマ1世によって建設された寺院で、タイ最初の大学としても知られています。
 ここの回廊や礼拝堂などの壁や柱に、タイ医学や占星術、仏教学、芸術、歴史などに関する知識を分かり易く解説した絵や文章を描き、寺を訪れるすべての人びとに当時の最高の知識を開放していました。
 中に入ると、お寺の前には幾つもの石の像が建てられていました。昔、中国に物を売りに行った行商人が、帰りにこれらの石像を買って帰って来て、ここに据えつけたそうです。



 タイ式マッサージを教える部屋で、いろいろな人間のツボが描かれていました。



 このお寺を象徴する大寝釈迦仏です。
長さ46m、高さ15mの金色に輝く寝仏がお堂の中のほとんどを占めています。ぐるっと一回りしてみました。


 仏様の足の裏です。偏平足で、それも仏教の教えの一つだそうです。バラモン教の心理が108面の螺鈿細工画に描かれています。



108つの煩悩を捨てる鉢

 108個の鉢が釈迦の後ろの通路に備え付けられており、そこにコインを一つづつ入れて行くと御利益があるそうです。お椀にはきっちり、108個のコインが入れられており、それを数えて入れて置くのはお坊さんの仕事だそうです。


 ワット・ポーには立派な本堂のほか幾つもの仏塔が建てられています。タイルの破片で美しく飾られています。


 沢山ある仏塔の中でも、マーラ2世〜4世の仏塔はひときわ大きく作られています。



 金色に塗られた数多くの仏像が回廊の並んでいました。



 入り口付近です。ほっとする穏やかな雰囲気を作り出しています。



王宮見学
 
 ワット・ポーを出て、隣接する王宮の見学です。ものすごい混雑です。毎日6000名程度の入場があるそうですが、先週は中国の正月休みのため、毎日2万人もの入場者がいたそうです。
 入場料は一人500バーツですので、毎日1,000万円もの収入があり、王室に大きな収入をもたらしているそうです。



エメラルド寺院

 まずはエメラルド寺院の見学です。内部に入るときは靴と帽子を脱ぎ、また、写真は禁止でした。
 下の写真は、外から望遠レンズで撮ったものです。
 エメラルド仏は高さ66p、幅48pと比較的小さな仏像ですが、実際はヒスイで造られているそうです。
 数奇な運命を持つこの仏様は、1778年、タクシン王によってバンコクに持ち込まれ、それを安置するため、この寺が建てられました。


黄金の仏塔
 
 この仏塔はラーマ4世がアユタヤにあるワット・プラシーサンベットの仏塔をまねて建てたものと言われています。



 本堂の回廊から見た風景です




 神話に出てくる蛇神ナーガが階段の上に、また、美しい壁の前に立っています。


 チャクリー宮殿です。タイと西洋の建築う様式をミックスした豪華な建物で、外国からの国賓を迎える迎賓館として使用されているそうです。


 回廊の一部にアンコールワットの模型が作られていました。
 タイの建築様式はクメール文化の影響を強く受けているようです。

 

 ピラミット状の仏塔です。金色の仏塔の台座を支えているのは半人半獣像で、神話に出てくる神々です。みんな、違う表情をしています。


 神話の神々が仏塔の周りを守るように配置されていますが、この金色の半人半鳥像もまた、インドの神話に登場する神様で、回廊を飾っています


 荘厳に装飾された豪華な建物です。日本のお寺とはだいぶ違っています。



 ここでも二体の鬼が睨みをきかしています。



チャックリー・マハ・プラサート宮殿

 王宮の中央にある宮殿で、ラーマ5世により、チャクリー王朝100周年を記念して建てられました。
 風格のある美しい宮殿です。



ドゥシット・マハ・プラサート宮殿
  
 1789年、ラーマ1世により建設されています。王宮内のもっとも古い宮殿で、歴代王の戴冠式に使用されています。



 帰りにお土産屋に連れて行かれましたが、その2階の廊下に飾られていた仏像です。


         

3日目 UNICO Grande Golf
  
 暖かいところでゴルフをしたいというのが今回の旅行に目的の一つですが、タイにはたくさんのゴルフコースがあり、どこですればよいのかは一つの問題です。
 家内がいろいろ調べたところ、バンコクから近くで、料金も安く、貸しクラブを借りて手軽に出来るところを選んだようです。確かに、高級なクラブはそれなりに格式があり、気軽にプレーという訳にも行かなさそうです。
 結果的に、PPツアーズのゴルフパックを利用しました。運転手がホテルに6時半に迎えに来て、ゴルフ場には7時に到着し、直ちにプレーを開始し、18ホールをスルーで回ります。運転手は車の中で私たちのプレーが終わるのを待っていて、終わったらホテルまで送ってくれるというものです。ゴルフ道具はPPツアーズのもので、私は男性用、家内は女性用のもので、あらかじめ車に乗せてありました。
 プレーが終わったのは、午前11時頃でしたので、お昼ごろにはホテルに帰ることが出来ました。
 午後はホテル近辺を散策してみました。



 ゴルフ場近くの風景です。タイではまだスクールバスを使用していないようです。


 スタートは到着順でした。まだ、ほとんど人がいなかったので、フロントでチェックインをした後、すぐにスタートです。ホテルからゴルフシューズを履いたまま車に乗って来たので、出発のためのクロークは使用しませんでした。
 バンコクの空気は、自動車の排気ガスの影響でしょうか、あまり透明度がよくありません。このゴルフ場は、市内から十分離れていましたが、やはり、透明度は良くありませんでした。
 しかし、その原因はなぜなのか、はっきりとは分かりませんでした。日本でも春になると春霞で遠くが見えなくなりますから、それと同じ原因かも知れません。
 今までの海外旅行で空気の透明度が最も悪かったのはネパールでした。その時も原因は分かりませんでした。とにかく、ネパールの空気の透明度は非常に悪かったのです。


 バンコク周辺は全く平らなので、ゴルフ場も真っ平です。そのため、コースの区切りには溝が切られ、水で満たされています。そのため、ボールは簡単になくしてしまいます。
 水があるので、鳥たちもゴルフ場を利用しています。


 名前は分かりませんが、ちょうど花が咲いていました。黄色の花と、桜と同じような花もありました。丁度満開でした。


 ボールは幾らなくしても心配はありません。スタートの2ホールで、なんと3個もボールを無くしてしまい、心配になり、私たちも2袋購入しました。
 キャデーさんは一人づつ付きますが、家内のキャデーは男性でした。
 前半の9ホールは二人で回ったのですが、後半のスタートの時、一人で来ていた日本の男性が、一緒にプレーさせて下さいと言ってきたので、大歓迎ですと告げ、3名でのプレーとなりました。その男性は、定年で退職しており、3ヶ月ほど、一人でタイで過ごすのだそうです。このコースにはタクシー出来たと言っていました。たしかに、慣れればタクシーで来た方が安そうです。


 午後は、ホテルでの休養と、簡単な散歩でした。


      

4日目 チャオプラヤー川クルーズ、バンパイン宮殿、アユタヤ遺跡観光


ホテルから船着き場へ

 今日も、朝6時半の集合です。Emperial Qeen's Garden Hotek から、HISのバスに乗り、船乗り場へ向かいました。朝早くから、道路は車で一杯です。船乗り場は一昨日観光したワット・ポーの船乗り場よりはだいぶ下流にありました。 



船着き場周辺散策
 
 クルーズ船の出発は8時半で、時間がかなりあったので、ガイドさんが、船乗り場周辺を案内してくれました。ガイドさんはHISに勤める現地のタイ人ですが、日本語は堪能でした。
 立派なホテルが林立する直ぐ脇に、少し、スラムがかった路地があり、そこにも連れて行ってくれました。タイの典型的な庶民生活のようです。



我々の乗る観光船
 
  観光船が上流から下ってきました。ここでUターンして、船乗り場にやってきます。
 2階建ての観光船で、すべて座席指定ですが、2階の先頭は自由席になっています。
 かなり機転の利くガイドさんで、たくさんの乗客が乗船待ちをしていたにも拘らず、我々をうまく誘導し、全員が2階の見晴らしの良い椅子へ誘導してくれました。
 1階と2階の座席は、観光客でほぼ満席でした。


 約2時間のクルーズです。船首には仏教国でよくみかけるお供え物が置かれていました。
 私と家内は一番前の見晴らしの良い席に座れました。



 アユタヤに向けて、上流へと向かいます。時速20qぐらいのスピードでした。
 しばらくすると、ワット・アルンが見えてきました。
 たくさんのビルやマンション、お寺が見えます。マンションは日本並みの高価だそうです。
 しばらくたち、町の中心部から離れると、水上に作られた家々が見えてきました。
 タイで有名なシンガービール工場が見えます。
 タイではハイネケンや日本のビールがどの食堂でも飲むことが出来ますが、シンガービールが一番安くなっています。いろいろ飲み比べてみますが、シンガービールはかなり美味しい部類に入ります。
 製造技術がかなり進歩しているようです。
 約2時間ほど乗り、バスに乗り換え、アユタヤに向かいました。
 
 




バンパイン宮殿
 
 この宮殿はバンコックの北60q、アユタヤの南約20qの所にあり、17世紀、アユタヤ王朝のプラサート・トン王により建設された避暑のための離宮です。
 1767年、ビルマ軍の侵攻によりアユタヤ王朝が滅びた後は、約80年の間放置されましたが、19世紀にラマ4世とラマ5世が復興されています。
 現在は国王の住居およびレセプション会場として使用されています。


 美しい宮殿です。この周辺は洪水に埋まったそうですが、この宮殿だけは周りの土嚢を築き、浸水を防いだそうです。
 湖上には大量の黄金を使って建てられたプラティーナン・アイスワンティップアートと言う離宮が見えます。


 

 3階建ての展望台で、登ることが出来ます。1881年に作られています。
タイ国中華総商会から寄付された、明天殿という中国風の宮殿が見えます。
タイの経済における華僑の影響力は非常に強いようです。



 立派な迎賓館です。

 

 公園には象を形どって剪定されたたくさんのつげの木がありました。
 黄色の花はタイの国花、ナンバンサイカチです。なお、タイのもう一つの国花はスイレンだそうです。



アユタヤ遺跡観光

 タイの古都、アユタヤ遺跡は、14世紀中ごろから400年に渡って栄えたアユタヤ王朝の都であり、くまなく観光すると、数日は十分かかるそうです。我々は、アユタヤ東部、アユタヤ駅の南にあるワット・ヤイ・チャイ・モンコン、大きな大仏のあるウィハーン・プラ・モンコン・ポピット、そのそばのワット・プラシーサンペットとワット・マハータートでした。
 アユタヤはチャオプラヤー川の河口から100qも上流にあり、海賊も手の届かない安全な場所でした。
 左の地図のように3つの川が合流する東西7q、南北4q四方の中洲にあり、水上交通の要所であり、物資の集散地でもありました。
 ここには外国からの貿易船が出入りし、世界でも代表的な国際貿易都市として大いに栄えて行きました。
 川には無数の船が浮かんでいたと言われています。

  



ワット・ヤイ・チャイ・モンコン

 この寺は、初代ウートーン王が、1357年、セイロンに留学してきた修行僧のために建立した寺院と伝えられています。
 現在のアユタヤ駅から南に2qの所にあり、遺跡群の中心からは離れています。そのためか、ビルマ軍による破壊はそれほどひどくなく、保管状態は比較的良くなっています。
 入り口近くの白い漆喰と黄衣の寝釈迦仏像が作られています。建物は破壊されてしまい、風雨にさらされたままになっています。
 寺の中にはひときわ目立つ高さ72mの仏塔があります。タイとビルマは何度も戦っているようで、この仏塔は1592年にビルマ軍との戦闘に勝ったことを記念して作られています。
 仏塔の前にはあぐらを組んだ大きな仏像が鎮座しています。
 また、仏塔の周りには、沢山の仏像が黄色い袈裟を付けて並んでいます。これらの仏像は、いずれも右手を大地に向けています。いわゆる、悪魔を追い払う降魔印(ごうまいん)です。アユタヤ王の指示によりこのような仏像が作られたそうです。これらに着せられた黄色い袈裟は信者の寄進によるものだそうです。 
 寝釈迦物を含め、これらの仏像も建物で覆われていたそうですが、ビルマ軍によって破壊されてしまいました。ただし、幸い、仏像の被害はそれほど大きくはありませんでした。

 

 タイというと、山田長政が有名ですが、江戸時代の初期、朱印船貿易でアユタヤにやってきた日本人は1500名にも達し、アユタヤ南部に日本人村が作られています。長政は時の王に寵愛を受け、地方長官まで勤めましたが、1630年、暗殺され、日本人村も焼打ちにあい、村は衰退してしまいました。
 今回のツアーではこの村の観光はありませんでした。



アユタヤ・エレファント・キャンプ

 この象乗りはアユタヤ名物だそうです。象に乗って遺跡の周囲を回ることが出来ます。
 私たちは別のところで象に乗る計画を立てていたので、同行した人たちが象に乗って帰ってくるまで、象達の芸を見学していました。象はかなり人に慣れていて、危険はなさそうです。象のキッスを見たのは初めてですが、自分の鼻を相手の口に入れていました。




アユタヤ遺跡中心部

 アユタヤは1350年、アユタヤ王朝の都として築かれましたが、1767年、ビルマ軍によって徹底的に破壊され、都はバンコクへと移動しています。
 アユタヤの都は、周囲を三つの川に囲まれた島状の街で東西7km、南北4kmに広がっています。 
 大きな大仏のあるウィハーン・プラ・モンコン・ポピットは、Aのワット・プラシーサンペットの下の方にあり、Bはワット・マハータートです。AからBへはバスでの移動でした。



ウィハーン・プラ・モンコン・ポピット

 お寺の中にはタイ国内でも最大の仏陀像が座っており、その高さは17mもあります。この仏陀像は1538年、シーシェンというお寺に作られ、露天にさらされたままだったそうです。
 この仏陀像もビルマ軍との戦闘に巻き込まれ、頭の一部と右腕が損傷しましたが、ラーマ5世の時代に漆喰で補修され再建されています。
 1992年には大補修が行われ、全体に黒漆を施し、さらにその上に金箔が貼られ、現在の光り輝く仏座像と生まれ変わっています。大仏のまわりに、幾つもの仏様が飾られていました。
 現地の人の厚い信仰を集め、参拝者が絶えないそうです。



ワット・プラシーサンペット

 アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院で、1448年に建設され、寺院ではありますが僧は居住せず、主に宮中儀式が執り行われていました。
 このお寺の東西に並ぶ3つの仏塔はセイロン様式と呼ばれ、このお寺の象徴にもなっています。
 これら仏塔の中には各々の時代の王たちの遺骨が納められています。
 仏塔は本来は釈迦の遺骨を納めるために作られました。しかし、アユタヤ王朝の王たちは、自分を仏と同じ位まで高め、民衆に拝ませました。それが当時の政治でもありました。従って王たちは、たくさんのお寺を立てる必要があり、アユタヤ朝は400ものお寺を建てたと言われています。
 なにか、日本でも豊臣神社や徳川神社が作られ、自分を神として祀らせていますが、アユタヤ朝も同じような考えでお寺が作られたようです。
 仏塔の東側には本堂の中に高さ16m、重さ171sの純金で覆われた立仏像が置かれていましたが、ビルマ軍により奪われたのち破壊されてしまいました。
 3つの仏塔の周りには34の小さな仏塔もありましたが、これらもビルマ軍により破壊されてしまいました。
   



ワット・プラ・マハータート

 入り口の建物には、大洪水の跡が、そのまま壁に刻まれていました。人の背丈よりも高いところまで水に埋まったように見えます。


 この寺院は、クメール様式やスコータイ様式などが混在したアユタヤ初期の寺院だそうです。
 ここには高さ44mの仏塔が建てられていたと言われていますが、今は崩れ落ちて、その土台が残っているだけです。



 遺跡の中を歩いて回りました。




 この遺跡の象徴になっているのが、長い年月の末に木の根に首を絞められている仏頭です。
 多くの人がこの前で写真を撮っていましたが、その時は、座って、頭が仏頭より下にしたようにして撮る必要があるそうです。



 首のなくなった仏像もたくさん並んでいました。



 帰りはバスで直接ホテルまで戻りました。
 ホテルの近くで、おやつにバナナなどを購入しました。バナナが一房60バーツ、約200円でした。



付録

 スコータイ遺跡とアユタヤ遺跡


 12世紀、アンコール王国は巨大な勢力を築き、タイ全体を支配下に収めていました。タイ族は北方に暮らす小さな民族でした。しかし、1238年、タイ族はアンコール王国から独立し、スコータイ王国を設立します。
 スコータイ王国は、仏教により民衆の心を掴み、繁栄させて行きました。 スコータイには1万を超える仏像が作られており、いずれの仏も穏やかな微笑みを浮かべています。争いのない世界が最も幸せであることを民衆に語りかけたのです。スコータイとは、幸せの夜明けを意味するそうです。
 14世紀、スコータイ王朝を引き継ぎ、アユタヤにアユタヤ王朝が誕生します。アユタヤ王朝は、その後4世紀にわたって大いに繁栄します。しかし、その繁栄の陰で、仏教は大きく変わり、王は仏と同格だと民衆に説教するようになりました。そのため、アユタヤの仏像からは微笑みが消え、仏像は豪華な装飾で飾られるようになりました。人々の心は仏教から去りはじめ、隣国ビルマからの攻撃を受けると、もはや、それに打ち勝つ力はありませんでした。


      

5日目 洞窟寺、象乗り、筏下り、泰緬鉄道乗車、戦場にかける橋観光

 今日は現地のウェンディーツアーが開催するカンチャナブリーツアーに参加してみました。
 このツアー会社は Admiral ホテルまで向かいに来てくれて、その後、いろいろなホテルを回り、参加者を集めて大型バスに乗り出発する方式でした。
 カンチャナブリー市はバンコクの西方100qのところにありバスで約2時間の位置にあります。ホテル出発は朝6時半でした。



ワットタム・マンコントーン(洞窟寺)

 カンチャナブリー市の近くにあるお寺で、観光ルートの一つになっているようです。
 このお寺の中にある浮遊する尼さんと、長い階段を上った所にある洞窟寺が有名です。



浮遊する尼さん
 
 白装束に身を包んだ尼さんが、水中で、合掌したり座禅を組んだりといろいろなポーズを取ります。
 水槽は深さ2.5m、直径6mだそうです。



洞窟寺
 
 約100段近くある階段を上ると、ドラゴン寺院と呼ばれる洞窟寺があり、昔、僧侶の修行所だったそうです。洞窟内には、仏像が安置されています。
 さらに奥に進むと、這わないと進めないような狭い洞窟があり、そこを通り抜けると、細い穴の中にかけられた梯子を登って外るようになっています。日本のテーマパークなどに良くあるジャングルジムの小型版かも知れません。



第2次世界大戦 慰霊碑(カンチャナブリ連合軍共同墓地) )ャ
ナブリ連合軍共同墓地(タイ・カンチャナ
 車窓から見ただけですが、ガイドさんが共同墓地だと説明していました。バスはスピードを緩めずに進んだので、あまり良く見ることが出来ませんでした。
 日本軍によって、フィリッピン、マレーシア、シンガポールなどから連れて来られ捕虜の中で、強制労働や病気などにより亡くなった人たちの墓地です。埋葬されている人は6982名で、全員の名前が刻まれているそうです。



 カンチャナブリー近くの道路の中央分離帯には、美しい花が植えられていました。



象のトレッキング

 今まで、海外旅行でラクダや馬に乗ったことはありますが、象乗りは初めてです。
 象使いは象の頭の上に乗り、お客はその後ろに付けられた鞍に乗ります。そこには2人まで乗ることが出来ます。乗ってみると象はのっしのっしと歩くので、そのたびに大きく上下します。鞍の手すりをしっかり握っていないと振り落とされそうです。
 象は川の方に歩いてゆきました。乗っているのは楽ではありません。歩いたほうがずっと楽です。



 象が川に入ると、近くに西洋人と思われる二人が裸で、しかも裸の像に乗っていました。
 象は人の背丈よりも高いので、滑り落ちると骨折もあり得ると思われますが、一般に西洋人は恐れをあまり感じない人が多いようです。


 今度は森に入って行きました。象使いが象から飛び降り、私たちの写真を撮ってくれました。
 トレッキングが終わり、元の場所に戻ってくると、たくさんの像が鎖につながれていました。なにか、可哀そうでした。



いかだ乗り
 
 まず、竹で作られたいかだに乗って、モーターボートにひかれて上流に向かいます。 



 ほとなくして、モーターボートは、筏を放し、今度は川の流れに導かれ下流へと流されて行きます。
 筏使いが一人で操っていますが、時々、川にもぐったりして遊んでいました。
 筏は一見、竹で作られているように見えますが、その下には何本もの鉄のパイプが括り付けられていました。




泰麺鉄道乗車

 体験乗車は Thamkasae 駅から Thakilen 駅まで、約20分間で、その間に3つの駅があります。
 下の写真は Thamkasae 駅周辺で、ここから乗る観光客が多いのでしょうか、たくさんのお土産屋とバイキング形式の食堂がありました。
 この泰緬鉄道は第2次大戦中に日本軍がビルマへの軍事物資輸送の為に建設したものです。数多くの現地人や、何十万人とも言われる連合軍捕虜の犠牲の上に開通したことから「死の鉄道」とも呼ばれています。
 食事をしていると、たくさんの車両を連結した列車がこちら側に走ってきました。


 乗車まで時間があったので線路の上を歩いてみました。少し歩いてゆくと洞窟があり、仏像が鎮座していました。
 一日3往復の列車が運行されているようです。ほとんどの乗客は観光客のようです。


 1等車、2等車、普通車があるようです。
 1等車は特別料金が300バーツで、座布団が敷いてありました。乗客はゼロでした。
 私たちは2等車で特別料金は100バーツでした。
 普通車は結構混んでいました。


 鉄道の対岸にはたくさんの水浴小屋があり、救命具を付けているグループとそうでないグループなど、たくさんの観光客が川遊びを楽しんでいるようでした。



 鉄道沿線はこのようなへんぴな地でも人手が入っていました。




Thakilen駅に到着

 ここで降りて、ここからバスに乗りクウェー川鉄橋に向かいます。




クウェー川鉄橋
 
 タイに行く前に、一応、映画「戦場にかける橋」を見て見ました。もう数回は見ていると思います。
 従ってこの橋は、へんぴな山の中にあるのかと思っていたら、驚いたことに、一大観光地になっていました。
 映画のストーリーはフィクションで実際の状況とはかなり違っていたと思いますが、映画一本がこれほどの影響力を及ぼすとは、まさにその方が驚きでした。



 日本では鉄道の線路内を無許可で歩くと罰せられますが、ここでは線路の上を歩くことが出来ます。
 仮に鉄橋を歩いていて向うから列車が来ても避難する場所があるそうです。
 一応、向こうまで歩いてみました。
 最初に作られたときは木造でしたが、戦争中爆破されてしまったため、すぐに鉄橋に作り替えれられました。
 泰緬鉄道はバンコクの少し西のノーンプラードゥクとビルマのタンビュザヤを結んでおり、総全長415kmの鉄道でした。
 当時、日本軍はビルマで戦線を拡大していました。無謀なインパール作戦は、日本軍の作戦の粗末さの代表例としてよく語られています。
 当時、海上からの物資の補給はすでに無理になっていたので、陸上からの物資の補給が必須で、そのために泰緬鉄道が建設されました。
 この鉄道建設には、マレーシア、フィリッピン、シンガポールなどで捕虜になったイギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカなどの連合兵士軍とアジアの一般労働者(中国、インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、インド、)が動員され、その数は連合軍捕虜が3万〜5万人、アジアの一般労働者が10万人以上と言われています。この鉄道は1943年10月、全線開通しています。
 想像を絶する突貫工事であったため、過酷な労働により、連合軍捕虜の死者は1万6千人、一般労働者は3万人から10万人、日本人死者も1000名以上いたと言われています。
 終戦間近になると、クウェー川鉄橋は連合軍の格好の攻撃目標となり、再建してもすぐに爆破されたそうです。
 この鉄橋は日本の戦後賠償として、日本の橋梁メーカーにより改修されています。その時、当時の面影も残すようにして、改修したそうです。
 現在、この鉄道はタイとビルマの国境近くで分断されたままになっています。
 
 橋の長さは120mだそうです。
 もう一度、鉄橋を渡って戻りました。
 鉄橋の脇の広場に作られていた記念碑です。タイに住むアメリカ人によって作られたもので、読んでみると、
 日本軍により、約700名のアメリカ人捕虜がタイやビルマの捕虜収容所に移され、泰緬鉄道の建設に従事させられました。
 そのうち、356名が栄養失調、過労、虐待により死に至っています。
 と書かれていました。


 向うから列車が走ってきました。たくさんの人が写真を撮っています。列車には、若いお坊さんたちがたくさん載っていました。


 観光後ホテルまでは約3時間弱掛かりました。途中、ガソリンスタンドによりトイレ休憩です。
 タイにはたくさんのセブンエレブンやファミリーマートがあり、大変便利です。
 バンコクは相変わらずの渋滞でした。
 ガソリン価格は1リットル115円程度で日本よりはだいぶ安いようです。税金が安いのでしょうか。


         

6日目 線路市場メークロン および、ダムヌンサドアク水上マーケットツアー

 今日も昨日と同じウェンディーツアーで、Admiral Suites を6時半に出発し、Twin Towers Hotel で、別の参加者と合流します。ここからの参加者は若い4名の女性たちで、今日のツアーは合計6名でした。
 下の写真は Twin Towers Hotel 周辺です。いかにもタイの日常的な朝の風景です。



 賑やかな通りを通って、今日の観光地に向かいます。



線路市場メークロン

 Mae Klong 駅は、バンコクの西、70qの所にあります。メークロン線の終着駅となっています。


 メークロン駅に午前8時半ごろ到着しました。人、バイク、車でものすごく混雑しています。
 駅のホームには、ミシン裁縫で商売をしている人や食堂など、これが駅のホームかと驚かされます。
 ガイドさんから駅舎内で簡単な説明があり、列車が9時半に入って来る事、それまでは自由に行動し、入ってきたら見学は終わりで、ここに集合して下さい、ということでした。
 なお、1日8本の電車運行があるそうです。


 早速、市場見学です。線路の上を目安に市場の中に入って行きました。ものすごく混んでいましたが、かなりの人は観光客のようでした。しかし、売っているものを見ると、現地の人が料理をするためのもののようです。




 線路上の市場は全体の市場のほんの一部で、かなり広い市場でした。




 道路も屋台や人、自転車、バイク、車などでいっぱいです。


 何やら線路上のお店に動きがありました。列車が来るようです。1日8往復も来るのでは、慣れたものなのでしょう。商品を線路からずらしています。
 商品を動かした後はテントの移動です。
 警備員が現れ、列車と無線で連絡し合っていました。
 高さな10p以下ぐらいの商品は動かさなくても大丈夫なようです。そのまま置いてありました。


 驚いたのは列車が通った後でした。あっという間に元の姿に戻りました。1分もかからなかった感じでした。
 なぜこのような市場が存在するのか、タイ人の気質によるものか分かりませんが、いずれにせよ、生きるために、必死に働いている人たちの姿を見ると、何か、熱いものを感じました。



ダムヌン・ダドゥアック水上マーケット

 左のバンコク近辺の地図を見ていると無数の水路や運河があり驚きます。そのため、水路の中に家を建てて住んでいる人が多かったそうです。


 水上マーケットはそのような人たちのために作られ発展して行きました。しかし、なんといっても不便であることには変わりはありません。
 現在ではかなり姿を消してしまいましたが、昔の姿を保存し、観光客を呼び込もうとして作られたのが、このダムヌン・サドゥアク水上マーケットです。
 いわゆるテーマパークであり、お客はほとんどが観光客になっています。
 ダムヌン・ダドゥアックはバンコクから西へバスで1時間ほど行ったところにあります。

 とにかく、観光客で賑わっていました。
 バスから降り、モーターボートに乗って中心部に行き、そこからは手漕ぎボートに乗って観光です。
 なお、手漕ぎボートは、わずかでしたが別料金でした。
 店の商品に興味を示すと、店の人が竿を使って船を引っ張りお店に横付けさせます。
   



 観光は午前中で終了でした。昼食は簡単なタイラーメンでした。


        

7日目 パタヤビーチからラン島で海水浴

 観光名所、パタヤビーチには一度行ってみたいと思っていたので、HISのツアーを利用し、パタヤビーチに行き、ついでにラン島にまで足を延ばし、南国の海を楽しみました。
 なお、パタヤへ行く途中の地域では、バンコクの北側の洪水地区から移動してきた工場群の建設ラッシュが続いているそうです。


 ビーチに到着すると、高速艇が待っていました。桟橋は無く、裸足になって海に入り、高速艇に乗り込みます。


パタヤビーチの沖合に大きな筏のような浮いた平らなパラセーリング用浮島が作られ、そこからどんどんと飛び立っていました。
 この浮島を3周して戻ってくるそうです。同行した女性4名はいずれもトライしていました。840バーツだそうです。私たちは海水パンツを用意していなかったので、飛行出来ませんでした。


 ボートにひかれどんどんと飛び立って行きます。見ていると、スキーのリフトに乗るような感覚で、係員の誘導で誰でも乗れるようです。乗る時より降りるときの方が怖いそうです。


 再び高速艇に乗り、ラン島に向かいました。ボートは泳いでいる人の近くまで行き、ここにも桟橋がないので、裸足になり、海に足を入れて砂浜の方に歩いてゆきました。


 折角、ラン島に来たのですが、特にすることもないので、荷物をロッカーに入れ、上半身は裸になり、短パンを履いてビーチの貸しマットで過ごすことにしました。


 ここは海水浴場ですが、さすが、世界的にも有名な海岸なので、泳いでいるのはすべて観光客です。
 そういうこともあって、たくさんの人がカメラを手にし、泳いでいる友人などの写真を撮っていました。
 ベンチに寝ころびゆっくりと眠っても良いのですが、私たちは何時もソニーのウオークマンを持ち歩いています。録りためたクラシックや日本の歌、朗読、録画したビデオなどを入れてあるので、時間つぶしに困ることはありません。


 2時半ごろ、再びパタヤビーチに高速艇で戻りました。約20分ぐらいの乗船でした。 もう、パラセーリングをしている人はほとんどいませんでした。



 さすが貫録のあるパタヤビーチでした。


 パタヤビーチからホテルまでは約3時間でした。


          

8日目 UNICO Grande GOLFでゴルフ、および、午後はホテル近辺散策

 2回目でもあり、システムやコースに馴れ、今日は順調です。スタートは6時50分ごろで前回よりも10分ぐらい早くスタートすることが出来ました。


 前回の時はまだほとんど散っていませんでしたが、桜が散る様にたくさんの花が散っていました。
 もう一週間も過ぎると、花はすべて散ってしまいそうです。


 ある一つのホールだけでしたが、意味不明の大きな円が描かれていました。
OKマークの意味でしょうか。
 一流コースならあり得ないジョークです。



 二人とも今回はうまく乗せパーを取りました。



 花の名前をキャディさんから聞いたのですが、難しい名前で忘れてしまいました。




 本当に平らなコースです。

 おばさんが一人、芝の中の雑草を取っていました。雑草と言っても芝とよく似ていますが、それをきれいにとると、芝が無くなってしまいそうです。
 この広いコースを一種類の芝にするのはかなり大変なようです。


 グリーンに二つの旗が立っていました。係員がホールの場所を取り換えていました。
 通常、日本では、朝早くなど、お客が来る前に行うのですが、このコースではプレー中に行うようです。


 ホールインワンをした場合、賞金が貰えるようです。よく見ると日本語です。
 日本人が多いのでしょう。
 グアムでプレーした時も同じような経験をしたことがあります。
 ラフに入ると大変です。すっぽりと沈み、探すのが大変ですし、打つのも大変です。
 これもグアムと同じでした。



 今回は二人とも女性のキャディさんでした。


 ホテルにはちょうど12時ごろに帰ることが出来ました。午後はますます暑くなり、ゴルフは午前に限ります。



午後、ホテル界隈散策

 Admiral Suitesはスクンビット通りから少し入った所にあります。



 ホテルからスクンビット通りに行く間には、たくさんのお店が軒を連ねています。


 スクンビット大通りで、バンコク内でも有名な大通りです。
 青信号になると、バイクが一斉に飛び出します。ただし、ベトナムよりは信号があるだけ、まだましです。
 珍しく、トヨタプリウスを見かけました。こちらではハイブリッド車が殆んど売れないそうです。
 将来、誰でも車を持てるようになり、ガソリンの価格がかなり高くならないと、なかなかハイブリッド車は売れないのでしょう。
 ハイブリッドの良さは、なんと言っても静かなこと、馬力があることなどで、総合的にはまだ、ぜいたく品なのかも知れません。

 


 夜のホテル界隈です。たくさんの屋台が店をだし、マッサージ店の女性たちは道路に出て、客の呼び込みに必死です。

 そのような状態が深夜まで続くようです。


          

9日目 トリムック宮殿や水晶時、中華街などの散策


 今日は、特に予定を立てていなかったので、適当にタクシーを拾い、バンコクを散策してみました。


ラチャダナー通り

 ホテルから王宮近くのいろいろなお寺が建つラチャダナー通りまでタクシーで行ってみました。
 ホテルから200バーツでした。遠くに民主記念堂が見えます。



トリムック宮殿

 この近くには幾つもの宮殿がありますが、ここはその一つです。あまり人気がないのか、この宮殿には人がほとんどいませんでした。向うに「鉄の城」と言われるロハ・プラサートが見えます。宮殿の中を歩いて、ロハ・プラサートの方へ歩いてゆきました。 



ロハ・プラサート(Loha Phrasat)

 鉄の城「ロハ・プラサート」と言われ、1867年に建立されたラマ3世ゆかりの寺です。小さな塔が林立しています。仏陀やその弟子たちが住む建物だったそうです。
 この城は37本の尖塔を持ち、高さは36メートル、ほぼ正方形の形で内部は廊下が回廊状になっており、建物中央にある螺旋階段を使って上に登ります。最上階は7階にあります。
 2階以上のフロアには回廊があり、たくさんの仏像が飾られています。
 歴史の勉強なのでしょうか、学生たちがたくさん見学していました。



無料の博物館や美術館

 近くに博物館や美術館があり、いずれも無料なので入ってみました。
 日本人の作品も飾られていました。



民主記念塔

 1932年6月に起こった立憲民主革命を記念して1940年に建てられた記念碑です。4つの塔の台座には民主化革命運動のあらましが描かれています。



ワット・ベンチャマポピット(大理石寺院)

 大理石寺院まで、パタパタに乗り行ってみました。渋滞している車の間を滅茶苦茶な運転で走ります。信号機のある大通りを右折するとき、先方から来る直進車を停めて横断したのには驚きました。命が幾つあっても足りません。


 1899年、ラーマ5世によって建てられた王立寺院で、屋根を除いた建物のほとんどが大理石で造られています。この大理石はイタリアのカララ市から運ばれた来たそうです。
 左右対称の見事な本堂です。
 お寺の中には、タイでは最も美しいと言われる仏像を模した青銅製の仏像が安置されていました。



 裏の回廊にはたくさんの仏像が置かれています。




 後ろからの眺めです。美しい対称形の形をしています。



 堀を渡ると、そこにもお寺が建てられていました。 




チャイナタウン
 
 水晶寺からさほど遠くない所にチャイナタウンがあるのでタクシーで行ってみました。
 金を扱う大きなお店が並び、また、たくさんの屋台が賑わっていました。
 食品から電気製品までこの町では何でも売っているようです。
 ただただ、この活気はどこから来ているのだろうかと、驚くばかりでした。


     

10日目 帰国

 帰りの便はUA838で、バンコック発 7時10分で、成田到着は午後2時50分です。偏西風が強かったのでしょうか、スケジュールだと飛行時間は5時間40分でしたが、実際は5時間弱でした。
 バンコックのタクシーはトヨタカローラクラスが多く、私たちのトランクを2つも積むのは困難かもしれないと思い、フロントに少し大きなバンタイプのタクシーを頼んで置きました。予定の午前4時には、ちゃんと玄関に待っていてくれました。9泊もしたので、フロントの女性とは顔なじみになり、来年もぜひ来てくださいねという言葉を後にし、ホテルを立ちました。
 朝早いこともあって、道路は空いており、約30分で空港に到着しました。
 UA838便は成田経由サンフランシスコ行きで、始発のため、希望の通路の席を問題なく取れました。
 この機種はボーイング747ですが、ほぼ満席でした。驚いたのは成田到着時でした。一応、サンフランシスコへ向かう人も全員降りるのですが、ほとんどの人は、そのままの乗り継ぎで、成田で降りたのは、パスポートの検査や荷物の受け取り場で見た限り、わずか15名ほどでした。いわゆる成田素通りです。日本は人気がないのでしょうか。

 

 バンコクのスワンナプーム国際空港は、2006年9月に開港した新空港で、私にとっても初めて利用する空港でした。
 朝早いこともあって、大変空いていました。




 バンコクにおける外人の多さにも驚きましたが、とにかく活況を呈していました。
 日本では、いろいろな影響もあり、旅行に出かけると、どこも大変空いているのに比べ、このような世界もあるのだなという新たな驚きを感じて帰ってきました。
 対日感情も良く、物価も日本の半分程度で過ごしやすい国ですが、季節感が少なく、いつも暑いのが難点かも知れません。
 今回の旅行により、だいぶいろいろと観光したので、次回の訪問はだいぶ先になるかなという感じでした。







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