ドイツ、フランクフルトとミュンヘンの
     
          観光15日間(後半) 個人旅行

 2013年5月24日〜6月7日
 
          
8日目 ベルヒテスガーデンと岩塩坑観光

 今日は観光バスによるオーストリア国境近くのベルヒデスガーデンと岩塩鉱の観光です。
 ベルヒデスガーデンはかってヒットラーが別荘を建てたドイツが誇る景勝地です。
 町はドイツ・アルプスの高い山々に囲まれています

 本来は、ナチスの夏の避暑地、イーグルネスト観光でしたが、異常気象で、イーグルネストは雪に覆われ通行不可能とのことで、急きょ、岩塩坑観光に変更されてしまいました。
 ツアーの契約書にもそう書かれていたので、やむを得ません。



 観光バスは2階建てで、2階の一番前に座れました。しかし、残念ながら雨です。
 ただ、ドイツ・アルプスの素晴らしさを少し感じることは出来ました。機会があったら、もう一度来てみたいところです。



オーバーザルツベルグ資料展示館

 ヒトラーお気に入りのベルヒデスガーデンは、ナチス政権時代、ベルリンに次ぐ第二の政府所在地とも言われました。
 この資料館には第二次世界大戦下のナチスの残虐行為、ナチスに対する抵抗運動の歴史などや当時の防空壕などが展示、再現されていました。


岩塩坑観光
 ベルヒデスガーデンのすぐ近くにある岩塩抗後の見学です。
 入り口で、全員が鉱夫のユニホームをすっぽりとかぶり、連結された幾つものトロッコに乗り、トンネルの中を600mほど進みます。
 写真は禁止でした。たしかに、ものすごく長い滑り台で一挙に地底の降りて行ったり、地底湖を船で渡ったりして、カメラの操作は危険なのでしょう。滑り台ではお尻が一挙に熱くなり、このままで大丈夫だろうかと心配していると、滑り台の終点に到着します。鉱夫のユニホームが必要な理由も理解できました。
 坑内は年間を通じて気温が12℃だそうです。今日は外気温が低いので、問題はありませんでした。


             
9日目 ダッハウ強制収容所跡見学、
          夜、レジデンツで管弦楽鑑賞

 朝から強い雨です。強制収容所見学を半日で済ませ、もう一カ所行ってみようと思っていたのですが、雨の上、寒いので、観光はダッハウ強制重要所跡の見学だけにしました。
 今回は面倒なので、駅舎内にある観光会社のツアーに参加しました。英語専門のツアーです。
 ミュンヘン中央駅からダッハウまで、行くときはIC特急で約20分、帰りは普通列車で35分でした。 



 ダッハウで路線バスに乗り換えます。


 この収容所は、1933年、ナチス支配下で最初に作られたものです。
 ユダヤ人や、ナチスに反対するドイツ人、ポーランド人などが収容され、3万人以上の人々の命が奪われました。
 ガイドさんが長々と説明しますが、この分野の英語は苦手です。時々、雨が強くなり、聞くのも大変です。



 建物の中に博物館が作られています。まず、その中の映画館で30分程度のビデオ上映がありました。


 多少、当時の様子が再現されています。


 収容所は厳重な鉄条網で囲まれています。
 ここには登れば銃殺ですが、自殺を目的として登った人がたくさんいたそうです。


 焼却所の跡です。
 以前、ポーランドのアウシュヴィッツを見学しましたが、それに比べると、ここの収容所跡の展示スケールはだいぶ省略されています。収容所の保存運動が起こる前に、かなり潰されてしまったそうです。



 ホテルにいったん戻り、夜はレジデンツでの音楽会です。
 天気が悪いので地下鉄を利用しましたが、ミュンヘンの地下鉄は東京並みに深くなっていました。



 レジデンツ礼拝堂での音楽会です。小さい部屋なので、聴衆で満員でした。
 出し物はビバルディの四季などでしたが、四季は夏から始まり、演奏者は2名のみでした。
 かなり手抜きした演奏ですが、1時間強の演奏で4曲ですから、やむを得ないようです。



 今夜はドイツの典型的な料理にしました。4種類のビールが出てきました。二人で8杯飲んだことになります。


 雨が止んだので、歩いて帰りました。

       

10日目 ドイツ博物館見学

 今日も強い雨です。そのため、ドイツ博物館で1日過ごすことにしました。

 1952年に開館しており、科学技術を若い人たちに学ばせるように作られたそうです。
 展示フロアは地下1階から地上7階まであり、総面積は5万平方mもあります。
 展示品目は約1万7千点以上で、世界でも最高クラスにランクされる博物館です。
 順路に沿って歩くだけでも1日は掛かると言われています。
 博物館は川の中州に作られています。
 



 博物館の近くを市電も走っており、地下鉄の駅も近くにあり、交通は便利でした。



 とりあえず、7階までエレベーターで昇り、その後、階段を使って降りて行きました。あまりに広いので、自分が何処にいるのか分からなくなります。以下の写真は順不同です



人類の発達



宇宙の成り立ち



顕微鏡

 昔の顕微鏡から電子顕微鏡まで展示されていました。



カメラ

 ここには日本のカメラがオンパレードの感じでした。
 確かに、世界中を旅していても、皆さんが持っているカメラはほとんどが日本製です。



こどもの国

 たくさんのおもちゃが飾られていました。こんなにも複雑なプラモデルもあるのかと感心します。


迷路

 比較的簡単な迷路が展示されていました。子供用です。




 ここでは和紙も紹介されていました。



楽器

 ここにも日本の太鼓やツツミが展示されていました。



ガラス技術



織物技術



セラミック
 




 



発電

 電気を起こす原理が分かりやすく示されていました。




X線 
 



印刷技術
 
 なんといってもグーテンベルグを生んだ国です。



原子物理

 数名の物理学者の写真が飾られていましたが、その中に湯川秀樹博士も入っていました。


通信技術
 
 私の一生の仕事分野が幾つも展示されていました。
 むかし、いろいろとお世話になったノーベル賞受賞のカオー博士の写真も飾られていました。
   



計算機

 機械式や真空管による計算機も飾られていました。




アマチュア無線
 
 たまたま、係員のような人が近づいてきて、お前はアマチュア無線のライセンスを持っているのかと聞かれました。
 子供の頃、夢中になった記憶があります。



録音録画など

 ここでも、日本の製品が幾つも飾られていました。




アマチュア天文学
 



鋳物
 



飛行機

 発展の歴史が分かる様に非常にたくさん展示されていました。




ヘリコプター

 ヘリコプターをこれほど間近に見たのは初めてでした。



ジェット機

 昔、興味を持っていろいろと勉強しましたが、もう、だいぶ忘れています。



宇宙航空学

 日本のロケットは展示されていませんでした。




マイクロフォトグラフ


 このような分野があるのを知りませんでした。
 狭い通路の壁に飾ってあったので、写真に収めてみました。


 一枚の写真の大きさは、縦が約 1m ぐらいでした。



 ミュンヘン駅のど真ん中で寿司が売られていました。
 のり巻き寿司1本が 2.2ユーロ、約300円でした。こんなに高くても売れるようです。



 こちらでは立ったまま食べる人が多いようです。
 NHKの関口知宏、ヨーロッパ鉄道の旅でもこのような風景が良く出てきます。

          

11日目 レーゲンスブルク観光(世界遺産)

 今日は雨が弱くなってきたので、レーゲンスブルクに行くことにしました。
 この町からはドナウ川遊覧船が出ているようなので、それにも乗ってみようと思っていました。
 レーゲンスブルクはミュンヘンの北140qにあるドナウ川沿いに発展した古都です。
  ローマ時代、ローマ軍が宿営地としてこの地に城を築いています。この頃、ドナウ川流域はローマ軍の最前基地でした。
 中世になると神聖ローマ帝国の支配下に入ります。町はドナウ川で運搬される塩の交易により栄えてきました。
 ミュンヘンからRE快速で約1時間30分ほどの所です。



 昨日の雨のためでしょうか、水害が発生しているようです。
 レーゲンスブルク駅に着くと、まず驚くのが駅全体が大きなマーケットになっていて、どこが駅なのか、出口はどこなのか、なかなかわかりませんでした。


世界遺産レーゲンスブルク市街

 神聖ローマ帝国の支配下のもと、商人たちは交易で富を蓄え、皇帝から自治権が与えられ、1245年、自由都市の宣言がなされました。
 市民たちは自分で法律を決めたり、通貨を作る権利などを得たのです。
 歩行者専用の広い石橋がドナウ川を跨いで作られています。


 残念ながら、また、雨が強くなってきました。
 旧市街まで歩いても15分程度のようですが、雨で歩きにくいので、タクシーで行くことにしました。
 大聖堂の前には何台もの観光バスが停まっていました。旧市街の中まで大きなバスが入れるのは珍しいことです。


大聖堂

 13世紀から14世紀に建てられたバイエルンで最も重要なゴシック建築です。



 ステンドグラスの美しさがこの大聖堂の特徴だそうです。

   


ドナウ川大氾濫

 ドナウ川には歩行者専用の石橋が作られています。行ってみると大洪水です。
 これでは遊覧船をあきらめるしかありません。しばらく洪水の様子を眺めていました。

 橋を渡った向こう側の市街も世界遺産になっていますが、雨が強いので行くのを中止しました。



ドナウ川

 ドナウ川について調べてみました。

 ヨーロッパ第二の大河で、全長は2,850 km。ドイツ南部の森林地帯に端を発し、ウィーン、ブダペスト、ベオグラードと、3国の首都を貫流し、ルーマニアとブルガリアの境を東進して黒海に注いでいます。



 ドナウ川源流からオーストリアへ

 ドナウ川源流は明日観光するウルムの東側の広い大地にあり、そこからミュンヘンの北100q付近を通り、今日訪問したレーゲンスブルクを通り、オーストリアへと流れて行きます。
 したがって、この大氾濫はミュンヘンとフランクフルトの間に降った雨が集まったことになります。



旧市街

 帰りは歩いて戻りました。確かに幾つもの高い塔がありました。




 夜、テレビを見ると、ドナウ川やライン川の大氾濫が大きなニュースになっていました。
 日本でも、ヨーロッパ大陸の大洪水がだいぶ話題になったそうです。

            

12日目  ウルム、アウクスブルク観光

 ヨーロッパ大陸に異常気象が発生し、大雨を起こしていますが、天気予報を見ていると、その雨は東への進んでいるようです。
 本来、今日は、オーストリアのザルツブルク観光の予定で、すでに前もって観光業者に申し込んでいたのですが、業者から、ザルツブルクへ行く道路は洪水で寸断され、観光中止との連絡がありました。
 そのため、今日は西の方へ行くことにして、ウルムと、アウクスブルクの観光にしました。
 幸い、今日は、晴天に恵まれました。 
 ミュンヘン〜アウグスブルク間は15分おきぐらいに列車が走っており、普通列車でも1時間弱で到着します。そこで列車を乗り換え、ウルムまで約1時間強でした。



 今朝もミュンヘン中央駅から出発です。今日は普通列車に乗ってみました。
 かなり空いていて、たくさんの人が自転車を持ち込んでいました。



ウルム

 この大聖堂の高さは161.53mと世界一です。
 ウルムは中世以来、ドナウ川の水運で繁栄して来ました。
 アインシュタイン(1879-1955)はここで生まれています。



 駅前から大聖堂の方へ歩いてゆきました。まっすぐに歩いてゆくと大聖堂が見えて来ました。
 なにぶん、世界一高いのですから遠くからも見えるはずです。
 ただし、世界一と言っても、ケルン大聖堂より、約5mほど高い程度ですから、誤差の範囲かも知れません。



 なんといっても世界一というのは素晴らしいことです。
 私たちがこの町に来たのも、世界一を見て見たいというのが理由でした。
 入ってみるとミサを行っており、12時半になれば入場できるとのこと、その前に街の見学をすることにしました。
 このゴシック様式の大聖堂は1377年に建設が始まり、500年以上の年月を経て、1890年に完成しています。



市庁舎と広場

 市庁舎は鮮やかな壁画で覆われていました。
 その前の広場を通り、ドナウ川の方へ歩いてゆきました。




 この辺りは漁師の一角と言われ、中世そのままの姿を保っています。上の階に行くほど大きくなり屋根が飛び出しています。
 斜めの家もあります。中は平らになっているそうです。狭い路地を進むとドナウ川に出ます。



 数日前からの大雨のため、氾濫の跡が見えます。通路も水に浸かったようです。
 大聖堂まで戻り、昼食をとり、12時半になるのを待ちました。


 大聖堂の内部です。 



アウクスブルク

 人口20万人を超えるロマンチック街道最大の都市です。
 紀元前15年、ローマ人によって建設されたドイツ最古の都市で、中世の時代はヨーロッパにおける金融と商業のネットワークの中心地でもありました。
 かつて、アウクスブルクには世界で指折りの裕福な人たちが住んでいました。特に金融業を営んでいたフッカー家やヴェルザー家は有名でした。ドイツで司教や枢機卿、そして神聖ローマ帝国の皇帝になろうとするには特にフッカー家と深いつながりを持つことが重要でした。
 ヤコブ・フッカーは、皇帝へも貸し付けを行っおり、返済に追われた皇帝はフッカー家に数々の利権を与えるようになり、ヤコブ・フッカーは銀山の採掘権を手に入れ、コイン鋳造の特権をも得ました。
 銀の生産管理体制や独占的販売網を築きフッカー財閥はゆるぎないものとなっていったのです。
 彼らは芸術を保護し、多くの壮麗な建築物を築き、アウクスブルクにはルネッサンス文化が開花しました。
  当時のアウクスブルクは商人はもちろん、政治家、宗教家などさまざまな人々が訪れ、時には町の人口を超える人の訪問者で賑わうことがあったと言われています。
 ロマンチック街道とは、北端のヴュルツブルクから南端のフッセンまで続いていますが、フランクフルトとミュンヘンの間を通り、スイスに向かって南下しています。
 ロマンチック街道の名前は、ドイツのロマン時代の、どちらかと言うと、近代化に遅れをとり、寂れかかった町まちに、観光客を呼び寄せたいと願ったドイツ観光局がつけた名前で、現在の男女間のロマンチックとは全く異なるそうですが、その名前をつけた後、アメリカ人を初め、日本人など多くの人が訪れるようになったそうです。


 今日は天気が良いので、すべて歩いて回りました。
 まさに、中世の宝物が集まったような町でした。



 駅を降り、その前の通りをまっすぐに進んでゆ来ましたが、中世の街並みが続いています。 



シェッツラー宮殿 (州立絵画館、およびドイツ・バロック美術館)

 1770年に建てられたロココ風の宮殿です。絵画館と美術館が繋がっています。
 見学者は私たち以外に若い女性が2名居ただけでした。とにかく空いていました。



 たくさんの宝物も飾られていました。




 これらの宝石類はインドから手に入れたようです。



聖ウルリヒ&アフラ教会

 新教と旧教が同居する珍しい教会です。
 手前に見えるのがプロテスタント(ルター派)の聖アフラ教会で、その奥の高い鐘塔を持つのがカトリックの聖ウルリヒ教会です。名前の由来は、304年に殉教した聖アフラと、10世紀の聖人ウルリヒの墓場になっているので、そう呼ばれているそうです。
 1474年、この地に聖ウルリヒ教会が作られました。まだ、ルターが生まれる前のことです。
 ドイツにルターによる宗教改革が起こると、1555年、アウクスブルクの宗教界はルター派を容認する決定をします。この和議を記念して、聖ウルリヒ教会の一角に、規模は小さいものの、聖アフラ教会が作られました。
 新教徒と旧教徒が仲良く暮らせれば、ドイツはますます発展していったと思われますが、17世紀半ば、ボヘミアでのプロテスタントの反乱を引き金に、周辺諸国を巻き込んだ三十年戦争が勃発し、ドイツは衰退への道を歩み始めました。



聖アフラ教会 

 たしかに、質素な教会です。ルター派にとって、豪華な教会は意味を持たなかったのでしょう。



聖ウルリヒ教会

 入り口が何処かわからず、見つけるまでだいぶ時間が掛かりました。
 入ってみると、ここにも、訪問者は誰も居ませんでした。



2つの教会

 二つの教会は完全にくっついています。
 聖ウルリヒ教会の一角に、後からアフラ教会が作られたと知れば納得します。



市庁舎とペルラッハ塔

 市庁舎はドイツ・ルネッサンスの最高傑作と言われています。4階には贅を尽くした黄金のホールがあるそうです。
 高さ70mのペルラッハ塔は1182年に作られました。今も、塔に登り市内を見晴らすことが出来るそうです。


市庁舎前広場

 若者たちが地面にべたっと座っていました。最近、日本でもこのような座り方をよく見かけますが、こちらも同じようです。



大聖堂

 アウクスブルクを代表する大聖堂です。
 建物の左側には10〜11世紀のロマネスク様式が残り、右の入り口付近は14世紀にゴシック様式で増築されています。



大聖堂内部

 聖堂の預言者を描いたステンドグラスは11世紀後半に作られたもので、完全な形で現存する世界最古のステンドグラスと言われています。
 隣接して司教区博物館がありますが、入ろうとすると、時間だと言われ、閉められてしまいました。



セント・アンナ教会

 マルティン・ルターが、かってこの教会を訪れ、滞在したそうです。
 教会の入り口がなかなかわかりません。地元の人に聞いたところ、入り口まで案内してくれました。
 小さな標識が掲げられているだけで、これでは地元の人でないと分かりません。
 中に入ると、まさに博物館のようです。廊下を一周すると、教会の入り口があり、入ってみました。
 掃除をしている人が一人いただけでした。
 この教会は、かって、カルメン派の修道院とその付属教会でした。1509年、フッガー家の墓所礼拝堂がこの中に作られています。


 駅まで歩いて戻りました。まだ、けっこう寒いのですが、半そでの女性が犬を連れて歩いていました。
 かっこいいので、写真に収めました。


        

13日目 ニンフェンブルク城観光後、フランクフルトへ移動

 
 7泊したミュンヘンとも今日でお別れです。
 ミュンヘン出発は午後2時半なので、午前中、近くのニンフェンブルク城に行ってみました。
 路面電車で行くことが出来ます。



 近づいてみると同じような建物が並び、どこが入り口か分からないほど広い宮殿です。
 宮殿はほぼ左右対称に作られており、その前には白鳥が浮かぶ運河が作られています。

馬車博物館

 観光バスがたくさん停まっている所があり、そこが入り口かと思い歩いて行ったところ、そこは馬車博物館でした。
 チケットを買って入ってみました。チケットは本城にも入れるものにしました。
 観光客はなぜかだれも居ませんでした。
 ルートヴィヒ2世の金細工を施した豪華な馬車やそりが展示されていました。
 当時の王家が蓄えた富の豊かさには驚ろかされます。



 なんとも素晴らしい飾り物です。世の中には、素晴らしいものがあるものです。



 絵画館も併設されていました。



 馬車館を出て、本城の方へ向かいました。




 豪華な宮殿です。
 このお城はヴィッテルスバッハ家の夏の離宮として17世紀から19世紀の半ばまで造営されて来ました。
 戦争による破壊も免れ、「妖精の城」とも呼ばれています。


 
 このお城の圧巻はルートヴィヒ1世が愛した美女36名の肖像画だそうです。
 部屋の一面に12名の美人画が飾られ、それが3面あるので、合計36名になります。
 面白そうなので写真に収めました。
 この中には、スキャンダルを越し、ルートヴィヒ1世を退位に追い込む原因になったと言われる、踊り子、ローラ・モンテスの肖像もあります。
 ルートヴィヒ1世は、ローラ・モンテスに大金を使いすぎ、領民が反乱を起こしたためでした。
 ローラ・モンテスはルートヴィヒ1世をはじめ、著名で資産家の男性を渡り歩いたと言われ、その生涯は多くの小説や映画に登場しています。彼女はのちにアメリカにわたり、39歳の若さで亡くなっています。
 下の写真の最後の絵がローラ・モンテスです。


 いろいろな部屋がさらに続きます。




 目隠しされた場所があり、覗いてみると壁の修復中のようでした。
 常時、たくさんの人がこのお城の保守、管理、修復をしているのでしょう。


 後ろの庭園に回ってみました。
 ミュンヘンのレジデンツもそうでしたが、庭園には誰でも無料で入ることが出来ます。
 仮に日本でこのような庭園が無料ならと羨ましくなります。


 最後のお別れにもう一度、市庁舎に行ってみました。ちょうど12時、市庁舎の人形が回り始めました。
 ヨーロッパの市庁舎には、このような仕掛け時計で回る人形をたくさん見かけます。



 市庁舎の中も覗いてみました。壁に姉妹都市の紋章が飾られていました。サッポロが姉妹都市になっているようです。


 こちらの人は、広場でビールを飲みながら昼食をとるのが多いと聞き、私たちも広場に行き、ビールで昼食をとりました。
 食事代は日本と同じ感じですが、ビールはこちらのほうがだいぶ安くなっています。



 いよいよフランクフルトに戻ります。列車での心配は荷物ですが、この列車には荷物置き場がありませんでした。仕方がないので、列車に入り口の両側に置いておきました。フランクフルトに到着するまで3回ほど停車し、乗客が乗り降りしましたが、車掌もそこに置く様にと言っていたので、問題はありませんでした。
 座席指定列車なので、それほどの混雑はありませんでした。車内にインターネット使用可能と書かれていたので、開いてみました。この列車に乗っている限り 4.95 ユーロと書かれていました。



 前に泊まったと同じホテルに戻りました。受付嬢が歓迎してくれました。
 もう一度、旧市街まで歩いてみました。途中、シェラーの像の前を通り、旧市街に着くと、韓国のお祭りが行われていました。フランクフルトは何時も何かのお祭りがあるようです。ドクトは韓国の島と書かれた幕が掛かっていました。



 カタリーナ教会に入ってみました。小さいながらステンドグラスの美しい教会です。



 再び、レーマー広場です。最後の晩なので、思い出にここでもビールでした。



 このようなツアーもあるようです。旅行会社の企画だそうです。
 少し遠回りして、駅前を通ってホテルに戻りました。


        

14日目 ヴィースバーデン、ハート・ホンブルク観光後、成田へ

 
 成田行きの飛行機の出発時間は午後9時5分で、出発までたっぷりと時間があります。

 ホテルに荷物を預け、まだ行っていない、比較的近いところに行くことにしました。
 案内書を見ていると、普通列車でも1時間弱の所に国際会議や温泉保養地で有名なヴィースバーデンがあるようです。
 とりあえず、行ってみることにしました。
 午後は、世界遺産に指定されたハートホンブルクのローマの遺跡リーメスへ行ってみました。
 なお、バーデンが付く地名は温泉地を意味しています。
  
 ヴィースバーデンは国際会議や温泉保養の町として知られ、ヘッセン州の州都となっています。
 この町には、かって、ゲーテ、ワーグナー、ドストエフスキーも訪れたそうです。
 町の中央にあるクーアハウスには、国際会議場のほかにカジノも併設されているそうです。
 ネロベルク登山鉄道は水力で動く登山鉄道だそうで、現存する水力による鉄道はここだけだそうです。
 折角ヴィースバーデンに来たので、行ってみることにしました。



 列車は驚くほど空いていました。
 ヴィースバーデンからネロベルク登山鉄道へは歩くには遠すぎるので、バスを利用しました。
 バスも市電と同様、乗車するとき、運転手にお金を支払います。


ネロベルク登山鉄道 
 
 登山鉄道と言っても、ほんの少し高い丘のようなところに登るための鉄道です。当時、この丘の上にはホテルがあり、1888年、宿泊客を運ぶために作られました。
 頂上にある車両と、出発点にある二つの車両はロープで輪になる様な形で結ばれています。車両の床の下には大きな水槽があり、頂上にいる車両の水槽は、そこから出る湧水で満たされ重くなります。一方、出発地の水槽は空にし、軽くします。従って、ブレーキを緩めると、頂上の車両は、出発地の車両を引き揚げながら降りてきます。
 車両の重さは乗客の人数でも決まるので、登る人と降りる人の人数により、水槽の水量は決められるとのことです。まさに、究極のエコ運転です。
 ただし、冬季は水槽が凍ってしまうので、運転は中止されるそうです。
 登山列車のレールは写真のように3本からなり、それらの中間に歯車で車両としっかり結びつけ、ブレーキがかかる様になっています。
 登山列車にはよく付いている構造です。
 幼稚園生でしょうか。バスからたくさん下りてきて、列車に乗り込みました。



 展望台が作られており、市街地を一望できます。丘の斜面はブドウ畑になっています。




 高い塔がそびえ、典型的なヨーロッパの風情を映し出しています。



 下りるときも子供たちがたくさん乗っていました。来る時とは違う子供たちでした。




クーアハウス 

 この町のシンボル、クーアハウスに行ってみました。
 クーアハウスとは温泉のある館を意味し、一般にはカジノが付いています。
 裏側には大きな池、噴水、芝生が広がっていました。誰でも無料で楽しむことが出来ます。一回りして、また、正面に戻ってきました。正面前にも池と噴水が作られています。


 正面からの写真です。


 再びフランクフルトに戻り、列車を乗り換え、ハートホンブルクに向かいました。
 まだ、洪水の跡が残っていました。普通列車で約20分でした。



 ハートホンブルクの頭に着く Bad は温泉を意味し、温泉地ホンブルクという意味です。この町は温泉地としても有名です。
 ハートホンブルク駅からは、たくさんのバスが出ていますが、時刻表を見るとザールブルク城砦行きのバスは2時間に1本しかありません。
 案内書にはバスの本数は少ないと書いてありましたが、まさか、2時間に1本とは驚きです。
 次のバスまでは1時間以上も待つ必要があります。歩ける距離ではないので、タクシーを利用することにしました。地元の人に聞いたら、タクシーは少なくポリスステーションまで行けばあるとのことでした。ただし、幸い、近くにタクシーを発見したので拾うことが出来ました。

 図中のAがザールブルクで、Bが中央駅です。
 運転手は英語をほとんど話せませんでした。パキスタンから働きに来ているのだそうです。
 帰りが心配なので、運転手にチップをあげ、1時間で戻ってくるから、待っていれば乗ってあげるよというと、OKとのこと、私たちが帰ってくるまで待っていてくれました。 町に戻ってもそう乗客がいる訳でもないので、1時間待ってもその方が良いのでしょう。
 効率よく帰ることが出来ました。



ザールブルク城砦リーメス

 リーメスとは境界を意味し、ドイツ版万里の長城です。
 建設はローマ帝国がその領域をゲルマン民族の侵入からライン川、マイン川の肥沃な土地と水運を守るために作られました。
 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、ゲルマニア地方を制圧すべき、軍隊を送りましたが、惨敗、退却し、ゲルマン民族がそれ以上ローマ帝国に侵入しないような防衛ラインの建設に着手しました。
 2代皇帝ティベリウスはさらに退却し、ライン川を最終防衛ラインに定めます。
 ハドリアヌス皇帝時代、ドイツに築かれたリーメスの全長はライン川からマイン川に至り580kmを越えるようになりました。現在、この長城にそって、60以上の大きな砦跡が発見されています。1つの砦あたり、約100名から1000名の守備隊がいたようです。また、物見櫓も頂上に沿ってたくさん作られ現在、約900個、発見されています。
 3世紀になると、ゲルマン民族はこの城砦を越えローマ帝国に侵入し、ローマ帝国は徐々に衰退の道を歩んでゆきました。
 なお、侵入したゲルマン民族は現在のフランス、ドイツ全域に広がり、フランス語を話す人たちとドイツ語を話す人たちが、徐々にフランスとドイツの国境を作って行きました。
 ザールブルク城砦は紀元前90年ごろに建設されたと推定されています。135年頃、さらに拡張され、長さ221m、幅147mになり、4つの城門、石壁、二重の堀を持っていました。
 1897年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ザールブルク城砦の再建を命じ、第一次世界大戦前に完成しています。
 現在は博物館となっていますが、2005年、世界遺産に登録されました。世界遺産に指定されているのはここだけでなく、550kmにわたる広い領域になっています。



 この左側にある建物でチケットを買い、そこを通り、ここに出ます。
 立派な城砦ですが、常時手直しされているようです。



 歴代のローマ皇帝の像が立っています。もちろん、再現されたものです。
 壁には当時の城砦跡やローマ帝国の領土なども描かれています。 



 現存する城砦が書かれていました。ここの城砦や、有名なイングランド、スコットランドの城砦、また、 シリア、アラビア間の城砦などがあるようです。



 まさに博物館です。当時の姿が再現されていました。


 城砦跡が整備されていました。炭焼き釜も再現されています。



 鉄道がフランクフルトに近づくと、高いビル群が見えて来ました。
 ヨーロッパ随一の交通の要所ですが、上海に比べればはるかに小さな規模です。



 ホテルで荷物を受け取り、また、鉄道で空港に向かいました。
 タクシーを使用すると、なにか怖い思いをすることがあるので、鉄道の方が安心です。



世界一危険な空港、フランクフルトの手荷物検査

 出国手続きを済ましたあと、手荷物検査があります。
 その検査中ですが、金属探知ゲートをくぐるとピーピーとなり、再検査をするように言われました。良くある風景です。
 検査官の手にしている感知器は感度を最大にあげているのか、金属の無いところでも、ピーピーと反応します。
 その後、ポケットに入っているものを出すように求められたので、財布とカード入れを出したところ、それを皿に乗せて、どこかへ持って行きかけました。
 普通なら、見ただけでOKといわれ、何もないのですが、持ち去る行為に不安を感じ、検査官に大きな声で、ノーと言ってそれを取り戻そうとしました。かなり大きな声だったのでしょう、周りの人も沢山私の方を振り向きました。そして、こんどはそれを女性の検査官に渡しました。
 女性の検査官は何の検査もせず、その財布に頬ずりをして返してくれました。如何にも人を馬鹿にした行為です。家内もそれを見ていたので、とんでもない検査官だと怒っていました。財布の中に危険物などないのは誰が見ても分かります。
 実は、昨年の9月にツアーでポーランドに行ったのですが、帰りにこの空港を利用しています。その時、同行した人が、手荷物検査中に検査官だと思うがカードを抜かれたと言っていたのを思い出したのです。
 黙っていたら、検査官は私の財布をどこかに持って行って、カードやお金を盗んだかもしれません。
 とんでもない空港です。幸い、被害はなかったので、被害届は出しませんでした。



 JALのラウンヂで時間をつぶし、無事機内に乗り込み、今回の旅も無事終わりに近づきました。



          
15日目 帰国

 帰国途中もインターネットを開き、やはりその速度を測ってみました。下りのスピードはわずか45Kbpsです。上りは30Kbps です。
 行くときよりもはるかに遅いスピードですが、通常の利用には十分です。
 井山本因坊と挑戦者高尾九段による本因坊戦が行われており、それを観戦して楽しみました。
 また、かなり古い映画ですが、フォレスト・ガンプ、一期一会を見て見ました。1994年のアカデミー作品賞受賞作品です。
 「人は皆、生まれたときから運命を持っているのか、それとも、偶然な、気まぐれな風に吹かれて、鳥の羽のように空中を漂っているようなものなのか、僕は、でも、その両方だと思う。たぶん、その両方が同時に起こっているのだと思う。」という言葉が印象に残りました。感動的な作品です。



 無事、成田に到着しました。
 三角屋根とカラフルな壁、木組で浮き出したような旧市街の家並み、個性あふれる市庁舎、また、すいていて十分に楽しめる美術館、それに、昼、夜のんだビールなど、ドイツの旅を十分に楽しむことが出来ました。ただ、異常気象に見舞われたりして、少し残念さも残りました。次にドイツに来ることが出来たら、ドイツアルプス、スイスアルプス辺りでゆっくり過ごすのも良いかなと思います。





次の旅日記に移る(海外編)



旅日記の表紙に戻る