シリア、ヨルダン、ドバイ 10日間の旅
クラブツーリズム

2010年9月23日(木)〜10月2日(土)

 映画「アラビアのロレンス」で見たアラブの世界、第一次世界大戦後の領土分割、また、イスラエル人とパレスチナ人の紛争、そして湾岸戦争やイラク戦争など、一度行ってみれば、理解度が含まるのではないかと思いシリア、ヨルダンに出かけてみました。
 近年のオイルマネーの高騰により、急速に豊かになったアラブ首長国連合ですが、ドバイに本拠地を持つエミレーツ航空が、中東のハブ空港を目指し、飛行機の便数を非常に増やしたため、中東へは比較的容易に行けるようになりました。
 数年前の好景気によりドバイは沸騰都市と言われていましたが、昨年はドバイショックと何かと話題の多いドバイにも興味がありました。
 今回のツアーの参加者は合計26名で、男性が8名、女性が18名でした。ご夫婦は6組で、参加者の大半が60歳以上でした。私たち20名は成田空港からでしたが、6名は関西国際空港から来ていました。2つの便はほぼ同時にドバイに到着し、また、帰りの日本に向けて出発する2つの便もほぼ同時刻にドバイを出発するので、旅行社にとっては都合が良いようでした。
 参加者の中の最高齢の男性は奥さんを亡くし単独参加の82歳でしたが、まだまだお元気でした。
 ご夫婦で参加の79歳の男性はエージカントリーを来年中には達成するのが目標だとか、あと数カ国を訪ねると、自分の年齢と同じ数の国を訪問したことになるそうです。
 下の図は、今回訪問するドバイ首長国の首都ドバイ、シリアの首都ダマスカス、ヨルダンの首都アンマンです。


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観光内容 宿泊地 歩数

 1日目


ドバイに向けて夜遅く成田を出発
4,390

 2日目

 
ドバイ経由ダマスカス到着。パルミラへ移動
パルミラ(シリア) 11,079

 3日目


終日パルミラ観光
パルミラ(シリア) 15,963

 4日目


パルミラを出発。午後、ダマスカス観光
ダマスカス(シリア) 15,726

 5日目


ダマスカスを出発。観光バスで国境を越えアンマンへ
アンマン(ヨルダン) 14,524

 6日目


アンマンから、ワディ・ラム観光後ペトラへ
ペトラ(ヨルダン) 9,076

 7日目


終日ペトラ観光
ペトラ(ヨルダン) 26,903

 8日目


ペトラを朝発ち、午後は死海で浮遊体験
死海(ヨルダン) 6,794

 9日目


死海を朝発ち、アンマンからドバイへ。ドバイ観光
アンマン空港(ヨルダン) 17,558

10日目


朝早くドバイを立ち夕刻成田に到着
1,984


             
1日目 成田からドバイへ

 今回の旅は、成田からドバイ経由ダマスカスへ、帰りはアンマンからドバイ経由成田と全てエミレーツ航空を使用します。
 エミレーツ航空はドバイを本拠地とし、急速にその規模を拡大しています。ドバイは、中東の経済・観光の中心地となるべく、積極的に投資を進め、街には超高層ビルや高級ホテルなどが林立していますが、エミレーツ航空もそうしたドバイ首長国の政策の一端として急速に拡大を進め、2010年3月からは成田空港へも、直行便を週5便飛ばしています。なお、大阪へは毎日1便直行便を飛ばしています。
 日本からドバイへの飛行ルートは、偏西風を極力避けるため、行きはヒマラヤ山脈の南側を飛び、帰りは中国北部の砂漠地帯の上空を飛んでいます。偏西風の状況により、季節によってルートは変わるようです。
 エミレーツ航空は本拠地ドバイから中東を始めヨーロッパやアフリカなど世界の100都市以上を結んでおり、そのせいもあってかエコノミークラスは完全満席でした。サービスを誇るエミレーツ航空の飛行機にはエコノミークラスにもパソコン用コンセントが用意されていていました。これは初めての経験でした。ただし、食事のルールは多少変わっていて、食事の後にビールやワインなどのサービスがあります。カタール航空に乗った時は、お酒のサービスがありませんでしたが、それに比べれば、我慢が出来ます。
 成田からドバイまでは偏西風を出きるだけ避けるように南側を飛びますが、それでも10時間50分かかり、成田を夜の9時40分に出発し、ドバイ到着は午前3時30分でした。ドバイと日本の時差は5時間あります。
 


      
2日目 ドバイからダマスカスへ。その後、マルーラ村、

        クラック・デ・ジュバリエ観光後、古代都市パルミラへ


ドバイ空港

 ドバイ空港はエミレーツ航空の本拠地であり、第三ターミナルはエミレーツ航空専用になっています。まだ新しいこともあって、広く清潔です。私たちはここで、7時15分発ダマスカス行きの便を待つため、約4時間の待ち時間がありますが、移動とセキュリティチェックなどに結構時間を取られ、時間はすぐに過ぎてしまいました。
 



ドバイからダマスカスへ。ドバイ出発

 飛行機は少し小型になり、座席は2−4−2の並びなので、窓側を取りました。ドバイはこの10年で急速に発展し、たくさんの高層ビルが建設されていますが、窓からはその広さを実感できました。


 飛行機は、アラビア半島の砂漠の上を飛んでゆきます。 ドバイからダマスカスまでの飛行時間は3時間15分でドバイを7時15分に出発した飛行機はダマスカスに9時30分の到着でした。ドバイとダマスカスの時差は1時間あります。
 



ダマスカスに到着

 砂漠の上を飛んできた飛行機は、ようやく民家のある町に近付き、ダマスカス国際空港に着陸です。樹木もところどころに見え、地下には水があるようです。
 空港で入国審査後、いよいよ観光開始です。空港から直接、専用バスで最初の観光地、マルーラ村へ向かいます。
 空港で現地のガイドさんがバスに乗り込みましたが、日本語はほとんど話せません。英語で説明し、それを日本から同行してきた添乗員が訳します。日本の添乗員は、私はガイドでなく添乗員ですからとか言って、現地のガイドさんが言ったのを訳していきます。日本の添乗員は中東専門だと言っていましたが、ガイドとしての知識はほとんどなく、時々、アンチョコを取りだして説明をすることがありますが、質問をしても、ほとんど答えられません。以前、スペインを旅行した時、現地のガイドさんを無視して、ほとんど自分で説明して行ったガイドさんとは雲泥の差があります。
 バスは砂漠の中を走ってゆきますが、道路の両側はどこまで行ってもゴミが散らかっていて、清掃はしていないようです。アメリカをドライブしていると、物を捨てると罰金という看板がよく建てられていますが、清掃の概念があまりなさそうです。



空港からマルーラ村へ

 かってマルーラ村は西安からローマに向かうシルクロードの一部でした。この村はNHK新シルクロード、激動の大地を行くの最終回 07祷り、響く道(レバノン)で詳しく紹介されています。



マルーラ村

 マルーラ村は空港から北へ1時間弱の所にあります。この村の西にはレバノン山脈が続いています。人口は約1万人と山に沿ってたくさんの家が建てられています。マルーラとは「岩の割れ目」を意味するそうです。
 この付近では、イエス・キリストの時代に使われていたアラム語が今でも一部で使われているそうです。
 山の上に、世界最古の教会の一つと言われる聖サルキス教会があります。内部は撮影禁止でした。
 教会の後ろの山にはたくさんの洞窟があり、当時、迫害を受けたキリスト教徒が隠れ住んでいた住居跡だそうです。


 バスは再び砂漠の中を北上し、12世紀に作られた十字軍のお城、クラック・デ・シュバリエに向かいます。砂漠に吹く風はかなり強いのでしょうか、樹木が傾いています。砂嵐になると、前が見えなくなるそうです。道路の両側は、ここもゴミが放置されていました。



クラック・デ・シュバリエ(世界遺産)
 標高650メートルの丘の上に建つこのお城は騎士の砦を意味しています。1144年、聖ヨハネ騎士団が以前からあったお城に移り住み、要塞化しました。外壁は30mの厚さを持ち、8メートルを超える壁厚を持つ7つもの守備塔を備えています。周りには濠も作られ、跳ね橋も作られました。
 内部にはホールや礼拝堂を備え、50名程度の騎士と2000名もの歩兵が常駐し、長さ120メートルの食糧貯蔵庫や地下貯蔵庫が備えられ、5年間もの包囲に耐えらるよう作られているそうです。
 この城は聖地エルサレムへの巡礼者を守る十字軍国家の重要な防衛網にもなっていました。
 しかし、1271年、イスラム国家マムルーク朝、バイバルスがこの城を偽りの情報をもちいて落城し、礼拝堂はモスクに変えられました。
 後に、アラビアのロレンスは、この城を世界で最も美しい城だと述べています。
 2006年、世界遺産に登録されています。
 私たちはこの城に隣接したレストランで昼食を取った後、内部の見学を行いました。



パルミラへ向かう

 広大なシリア砂漠を一路パルミラへ向かいます。途中、トイレ休憩があり、ちょうど太陽が砂漠に沈んでゆく時でした。



パルミラ遺跡 ライトアップ
 
 ホテルに到着する直前、バスは遺跡の前を通ります。遺跡はライトアップされ、ラクダに乗った観光客が映し出されて居ました。暗くて全体像は分かりませんでしたが、明日の観光が楽しみです。



付録 シリアについて

正式国名は シリア・アラブ共和国

 
   国旗の赤は剣と革命を、白は善と平和を、黒は過去に積み重ねられた戦いの歴史を、真ん中にある二つの緑の星は、豊かな大地とアラブ諸国の団結を意味しています。

 シリアは共和国国家で大統領制をとっています。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面しています。首都はダマスカスです。
 国土は日本のほぼ半分ですが、広大な砂漠が広がっています。人口は2200万人で、日本の2割弱になります。言語はアラビア語が公用語になっています。
 宗教は90%の人がイスラム教で、残り10%がキリスト教です。シリアの人口の70%がスンニー派で、大統領の属するわずか12%のアラウィ派が政治、軍事の中枢をしめおり、シリアの憲法はパアス党を「国家を指導する政党」と定めており、ほぼ1党独裁になっています。
 2003年、イラクがアメリカ軍に崩壊された後、シリア大統領は国内の引き締めを行い、デモや集会の禁止、民主活動家の逮捕など、民主化と逆行する道を歩んでいます。民主化による政権転覆を恐れていると言われています。
 シリアはアラブの世界ではエジプトに次ぐ軍事大国で、イスラエルを敵国としており、イスラエル軍によって占領されているゴラン高原の奪還は政権の最重要課題になっています。1976年以降、イスラエルをけん制するため、レバノンに軍を進め駐留していましたが、レバノン内の反シリア派や国際的な圧力により、2005年3月には完全撤退を表明しています。
 イスラエルと敵対していることから、ロシアや中国、北朝鮮との親交を深めています。そして、反米・反イスラエルを鮮明にし、イランとは事実上、盟邦関係にあります。私たちも、イスラエルのビザ印がパスポートに押されていると、入国は許可されません。
 ただし、1990年の湾岸戦争では連合国として戦い、戦勝国となっています。連合国軍側に付いたのは、自国がレバノンに侵攻していることへの非難を和らげようとしたためだと言われています。
 イラク戦争の時はイラクと戦い戦勝国になっています。また、アメリカにとっても、イラクに侵入してくるテロリストを抑えるためには国境を接するシリアの協力が不可欠で、アメリカとは微妙な関係にもあります。
 シリアはハマースなどを支援していおり、アメリカから「テロ支援国」と指定され、禁輸措置が取られ、経済的には苦しい状態が続いています。
 シリアのGDPは日本の1%程度と非常に小さく、世界的には約70位ぐらいに位置しており、一人当たりのGDPは世界で100位程度と貧しい国にランクされています。
 1980年代、イラクのデリゾールで油田が発見され、パルミラ近くで天然ガスの鉱脈が発見されていますが、西側諸国からの資金援助が得られず、自国の技術力や資金不足により、開発は進んでいません。現政権は民主化による海外からの援助と独裁の維持と言う難しいバランスが重要課題になっています。
 シリアには広大な砂漠が広がっているというイメージを持っていますが、北東部には世界4大文明の発祥地、ユーフラテス川が流れ、メソポタミアが広がっています。ここで世界で初めて農業が生まれ、アルファベットの原型が生まれています。 地中海に面する西側にはオロンティス川が流れ、地中海からの湿った風がもたらす雨の恵みで森林や草原が広がっており、流域は青々と広がる農業地帯となっています。



        
3日目 終日、パルミラ観光

パルミラ遺跡(世界遺産)

 パルミラ王国はシルクロードを旅する商隊をもてなす中継都市として、紀元前1世紀末から紀元後3世紀にかけて大いに栄えました。
 広大な砂漠を旅してきた商隊の人たちにとって、パルミラはまさにオアシスであり、そこに宿泊することは大変な楽しみであったようです。紀元前からこの地域を支配していたローマ帝国とは共存関係を保ち、この町が最も栄えたのは2世紀ごろで多くの神殿や現在まで残っている建物も、この時代に増改築されています。
 しかし、西暦270年の頃、この国の女王セノビアは領土の拡大を積極的に進め、アジアの小国やエジプトの一部も支配下に置いたと言われています。この時代、海路の発達により砂漠を旅する商隊は激減して行きました。女王セノビアは海路の権利を有するエジプトを配下に収めるべくエジプトに攻め入りましたが、エジプトを支配していたローマ帝国の逆鱗に触れ、ローマ軍により滅ぼされてしまいます。女王セノビアはローマにつれて行かれたとか、殺されたとか言われています。
 6世紀ごろには、この地を通る商隊がほとんど無くなり、歴史から消えて行ってしまいました。



ホテル周辺

 ホテルはパルミラ遺跡の入口まで歩いても20分ぐらいの所にあり、元気な人たちは砂漠に昇る日の出を見ようと遺跡まで出かけましたが、私たちはホテルの周りをちょっと歩いてみました。
 この町はパルミラ観光のための町で、人口は約3万人程度。博物館やホテル、土産物店、レストランなどがたくさんありますが、いかにも砂漠の中の小さな町と言う感じでした。ホテルの隣にモスクがありましたが、門は閉まっていました。日の出は曇っていて見えなかったそうです。
 シリアは近代化を図るため、インターネット設備の投資に積極的だそうです。3階の私たちの部屋からは繋がりませんでしたが、ロビーの近くに行くと、無料で無線ランを使用できました。日本との通信速度を測ったところ、0.8Mb/s繋がりました。かなりの高速でした。このホテルは中級以下ですが、一般に安宿ほど無線ランは無料になり、高級ホテルでは、接続料がかなり高くなります。
 Yahooに接続すると、日本のニュースを見ることが出来ますが、尖閣諸島問題が第一の話題でした。
 なお、Google検索を試みましたが、ほぼ中国と同じような制限を掛けているようです。Googleのブログは見ることが出来ませんでした。

 まずはパルミラ遺跡の西側にあるお墓群の見学です。現在、数百もの墓地が発見されていて、当時は一般の人にも分譲されて居たそうです。お墓によっては数百名ものお骨を収めることが出来るようです。



エラベル家の塔墓

 エラベル家はパルミラで一番のお金持だったそうです。数世代にわたる一族がこの墓に埋葬されていました。柱や天井には美しい模様が描かれています。このお墓は地下1階、地上4階建てで天井にも上がることが出来ます。


3兄弟の地下墓室
 
 このお墓は地下に作られています。重たい石の扉を開けると、壁面に美しいフレスコ画が現れました。残念ながら写真は禁止でした。カメラのフラッシュによる色あせを心配しているようです。



ボルハとボルパの墓

 日本人による協力の元、発掘されたお墓で、入口には日本語による表示もあります。
 奥には家族で団欒する像が作られています。この中のお墓は一般の人にも分譲されていたそうです。



アラブ城

 遠くの山の頂上にアラブ城が見えます。このお城は、パルミラ遺跡のどこからでも見ることが出来ます。今夜この城に登り、夕日を見学することになっています。威圧感のあるお城です。
 始めてこの城を見た時、現地のガイドさんにあれは何だと聞いてしまいました。お城だと言われ、納得しました。


 探すとまだまだ遺跡は出てくるそうです。


 いよいよパルミラ遺跡の見学です。バスから降りてまずはベル神殿からの見学です。



ベル神殿本殿

 1世紀から2世紀半ばにかけて建設された神殿で、本殿のわきに門があり、そこから中に入ると犠牲祭壇があります。壁にはたくさんの穴がありますが、ブロンズの飾りが付けてあったそうです。
 

 ベル神殿は一辺が200メートルもある非常に広い四角形の神殿で、周囲には列柱が建っています。上記の本殿はその中央に位置していますが、多くの柱は崩れ落ちており、昔の豪華な神殿を想像するにはかなりの想像力が必要です。
 たまたま、ロシアの水兵さんが観光をしていたので、一緒に写真を撮りました。
 

 神殿から外を覗くとナツメヤシが茂っていました。パルミラは水が豊かなオアシスであることが分かります。


 神殿から記念門まではわずか200メートル程度ですが、今回のツアーはお年寄りが多いので、添乗員さんが気を利かし、バスに乗り移動しました


記念門と列柱道路

 砂漠を渡ってきた商隊はラクダに乗りこの門に入ります。列柱は1.2kmも続きます。今は崩れ落ちて有りませんが、柱にはパルミラの有力者や大きな隊商のリーダーの像が飾られていました。いずれは私もこの柱に飾られたいと願いながらラクダに乗りこの通りを連なって進む商隊をイメージすると、当時の姿が目に浮かんで来ます。
 円柱の下には、パルミラ文字とともに、どの民族でも読めるようにギリシャ文字で書かれています。



円形劇場
 
 パルミラはローマの影響を強く受けていましたが、当時のローマ円形劇場がほぼ完全な形で残っています。
 この劇場で、毎年春にパルミラ・フェスティバルというイベントが開催されているそうです。



四面門

 名前が門と言われるごとく、門の働きをしているそうですが、四面門はローマ文化の影響を強く受けているそうです。
 大きく立派な門です。



パルミラ博物館

 パルミラの町の入口に博物館があります。パルミラの歴史が分かるようになっていました。



昼食 

 遺跡の見学後、町の入口のレストランでの昼食でした。ホテルはここから歩いて5分程度の所にあります。
 典型的なシリア料理でした。ほぼ毎日、このような前菜とその後、メインデッシュが出ました。



午後、再びパルミラ遺跡散策

 昼食後、午後は自由行動でした。私たちはホテルで少し休んだ後、もう一度、パルミラ遺跡を散策してみました。
 午後3時過ぎに行きましたが、もう観光客はほとんどおらず、現地の人がバイクに乗り、遺跡の中を乗り回していました。
 この遺跡は特に柵もなく、誰でも無料で入ることが出来ます。



アラブ城

 アラブ城に登り、そこから日の入りを見学する予定でしたが、残念ながら砂嵐のため太陽が良く見えません。時々風が強く吹き、半袖の腕に砂がぶつかり、目に見えないほどの小さな砂ですが、腕に痛みを感じました。風がさらに強くなれば、大きな砂も飛んでくると思われます。砂嵐の怖さを想像することが出来ます。
 このアラブ城は17世紀ごろ、このパルミラの街一帯を監視するために作られたと言われています。
 城はライトアップされていました。



夕食でのビール

 夕食時にビールを頼んだのですが、かなり濃くて泡があまり立ちません。良く見たら、アルコール度が9%と書かれていました。この様に濃いビールを飲んだのは初めての経験でした。かなり酔ってしまいました。



       
4日目 パルミラからダマスカスへ移動。その後、ダマスカス市内観光


パルミラ市内の朝

 ホテルの部屋の窓から外を見ると、今朝も少し曇っていました。
 食事の後、また外を歩いてみました。昨日よりも遅かったためか、道路は綺麗に清掃されていました。



ダマスカスに向けて出発

 バスに乗り出発すると間もなく、エンコしたバスに出会いました。珍しい風景です。
 バスは昨日見たパルミラ遺跡を通り、広大な砂漠を西に向かって走ります。途中、砂漠の中の十字路に出ました。ここで写真ストップでした。パルミラから87km、ホムスまで123km、イラクまで152kmのポイントです。地点を調べたので下の写真に掲載しました。 
 その後、今度は線路を横切りました。鉄道がシリアの大都市を結んで走っています。この線路は、ダマスカスとホムスを結んでいるようです。


トイレ休憩
 砂漠の中のコーヒーハウスでトイレ休憩でした。シリア、ヨルダンを通して、トイレは有料でトイレ番が居ます。二人で1ドルが標準で、一人で入る時は、1ドルを出すとお釣りは出ませんでした。ただし、このように何かを注文すると通常は無料になります。レストランも無料です。



べドウィン

 砂漠の中を走っていると、時々、ベドウィンの住居を見ることが出来ます。このハウスはトイレ休憩したコーヒーハウスのすぐ近くにあり、ちょっと覗いてみました。子供のロバがうれしそうに近付いて来ました。犬と鶏が一緒に暮らしています。
 しばらく見ていると、羊飼いがたくさんの羊を連れて出発してゆきました。
 砂漠には緑がほとんどなく、風が吹くと砂が舞って来ます。庭には木や芝や草花もありません。テレビもありません。真夏、いかに暑くてもクーラーは有りません。羊飼いには土曜も日曜もありません。そういう事もあって、最近は都市へ行ってしまうベドウィンが多いそうです。



ダマスカスに到着

 市内はすごい渋滞でした。黄砂により市内はどんよりしていました。




国立博物館

 シリア国内から発掘された出土品が飾られています。イスラム建築の部屋もありました。博物館の中で一番美しい部屋だそうです。



市内風景

 遠くにSONYの看板が見えますが、黄砂に遮られていて良く見えません。道路にはたくさんの警察官が交通整理をしています。失業者対策のため、たくさん雇っているそうですが、ドライバーもなかなか従わないようです。



 バスを降りて昼食のため、レストランまで歩いてゆきました。



アゼム宮殿

 1749年、ダマスカスの統治者であったアゼムによって建てられた邸宅で、現在は民族博物館になっています。



ウマイヤドモスク

 ウマイヤ朝の時代、715年に建てられた世界でも屈指の歴史を持つモスクです。イスラム教の第四の聖地とも言われ、多くの巡礼者が訪れるそうです。このモスクは西暦380年頃に建てられたキリスト教の洗礼者聖ヨハネの教会を改築して作られており、旧市街の中央にあります。中庭はかなり広く、全員靴を脱がされます。子供たちが庭で遊んでいました。
 信者でなくても、女性はねずみ色の服を羽織れば入ることが出来ます。
 


 モスクに入ると柱で3列に仕切られています。女性は入り口の1列に、男性は2列と3列目に入ります。
 中央にキリスト教の聖ヨハネの首が収められていると言う神殿があり、かわるがわる人が訪れ、礼拝をしていました。
 部屋の温度は、34℃と表示されていましたが、真夏はまだまだ暑いのでしょう。女性は服を着せられていますから尚更です。



スーク(市場)

 全長が約600メートルもあり、その上、路地は入り組んでいて、迷子になりそうです。ここは、終日、シリア各地から来た人たちや観光客で大変賑わっているそうです。また、ここに来れば、生まれた時から死ぬ時までに必要となるほぼすべての物はそろうのだそうです。
 名物、水売りがスークの中央で水を売っていましたが、結構現地の人は買って飲んでいます。仮に私たちがこの水を飲めば、お腹をこわしそうです。貴金属や宝石、それとガラクタらしいものまで売っています。中を歩いてみましたが、買いたいものは特にありませんでした。ただ、喉が渇いて仕方がないので、コーラを買って飲みました。缶のコーラ2つで1ドルでした。



真っ直ぐな道

 サウロ(後のパウロ)は熱心なユダヤ教徒で、敵対するキリスト教徒を迫害するためにダマスカスにやって来ました。しかし、ダマスカス近郊で強い光に打たれ、突然失明してしまいました。その直後、サウロは復活したキリストの声を聞きます。「起きて町に入れ、そこであなたのなすべきことが知らされる」と。同行していた人たちも、その声を聞きましたが、キリストの姿は見ることは出来ませんでした。人々はサウロに休養を取らせるよう、この真っ直ぐな道に運んで来ました。サウロは三日間、目が見えず、飲食も出来ませんでした。
 キリストは初代ダマスカスキリスト教司教のアナニアに、真っ直ぐな道に休養しているサウロに会いに行くよう命じました。アナニアはサウロに会い、サウロの上に手を置き、「主イエスがあなたの目が再び見える様になるよう、私を使わしたのです」と言うと、サウロはたちまち目が見える様になりました。新約聖書に書かれている真っ直ぐな道とはこの道だそうです。
 回心したサウロは身を起してアナニアから洗礼を受け、聖パウロと改名し、熱心なキリスト教の信仰者となり、また布教者となりました。
 西暦33年の頃の出来事です。なお、キリストは西暦30年頃、十字架にかけられ、死刑になっています。



聖アナニア教会

 聖アナニアはダマスカスにおける最初のキリスト教司教で、失明したサウロ(後にパウロ)に洗礼を授け、サウロにユダヤ教からキリスト教に回心するよう促しました。
 この教会はアナニアが住んでいた家の場所に作られ、地下には30枚の絵で、ダマスカスでの回心の様子が描かれています。
 話は変わりますが、一番下の写真の真ん中の男性は、現地の男性と思われます。両側に座った日本の女性たちの賑やかな会話の中、じっと我慢して?座っていました。このひげのおじさん、一日中、ここに座っているのでしょうか。面白いのでしばらく眺めていました。



聖パウロ教会

 ユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロは、ユダヤ教徒から命を狙われます。パウロはこの教会の東門から夜陰に乗じて外へ逃げたと言われています。
 この教会は現在、ギリシャ正教会が運営しています。
 パウロはその後も熱心な布教活動を行いますが、西暦61年頃、ローマで殉教したとされています。



韓国車

 シリア、そしてこれから訪れたヨルダンでも目に付いたのが韓国車でした。以前は日本車が多かったようですが、現在走っている車の約9割は韓国車です。バスやトラックまでもが韓国車なのには驚きました。韓国車は日本車と比べかなり安いのだそうです。



モスクとホテル

 街中にはたくさんのモスクがあり、美しく色づけされた尖塔がモスクのあることを示しています。
 ホテルは新市街の繁華街でした。



        
5日目 ダマスカスから観光バスで国境を越え、アンマンへ

 
 今日訪問する観光地を左の円で示しました。
 ボスラ遺跡、国境越え、ジェラシュ遺跡などです。



早朝のダマスカス市内

 出発前に、ホテルの前を少し歩いてみました。中東の都市の姿でした。



ボスラ遺跡(世界遺産)

 ヨルダンの国境近くにあるボスラ遺跡は、世界で最も完璧な姿で残る巨大なローマ劇場で有名です。
 このボスラは、紀元前1世紀から、ペトラを首都とするナバタイ王国の北の拠点として成長しました。106年にローマの統治下に入るとアラビア属州の州都となり、ヨルダンへと続くトラヤヌス街道の起点とする商隊都市として繁栄しました。
 劇場は黒玄武岩で作られ、華やかさはないものの堅牢、剛健な姿をしています。「黒く光る巨大な劇場」との異名を誇るローマ時代の円形劇場です。
 

 劇場の北側にはローマ時代の遺跡がそのまま残っており、当時の神殿や列柱を見ることが出来ます。遺跡の中は足場が悪く、現在は遺跡の中に入れないようになっています。数名の作業者が遺跡の整備を進めていました。



 ローマ劇場の入り口近くにレストランがあり、取り立てのザクロのジュースを売っていました。



国境の町、ダアラ付近

 国境の近くは、多少水があるようです。乾燥に強いオリーブ畑が続いていました。



シリアからヨルダンへ国境を越える

 国境での検査はかなり厳重なようです。車はトランク以外にエンジンルームも開けていました。バスも通過するのにかれこれ30分以上もかかりました。
 ヨルダンに入った時、国境職員がバスに乗って来て、ようこそヨルダンへと言う意味のチョコレートが配られました。
 また、国境を少し越えたところで、バスや現地の添乗員、バスの運転手が交換になり、我々は荷物を乗せ換え、今度はヨルダンのバスに乗り出発です。



ジェラシュ遺跡

 今から6500年以上も前から、ここに人が住みつき、人々は連綿と生活を営んで来ました。
 やがてローマ帝国が支配する時代になると、この町は黄金時代を迎えます。106年には皇帝トラヤヌスがペトラを含むヨルダン南部を征服すると、ジェラシュはアカバやペトラとの交易も広がって行きす。当時のジェラシュの人口は2万5千人にも達したと言われています。
 現在残っている遺跡の多くはこの頃に造られました。ゼウスやアルテミスの神殿、南劇場などは住民の寄付によって作られており、遺跡にはその住民の名前が刻まれています。
 3世紀の初めごろには繁栄の絶頂期を迎えましたが、海上輸送の発達やパルミラの滅亡により、この町も徐々に衰退してゆきます。
 その後、ローマ帝国の国教がキリスト教に定められると、幾つかの神殿は教会に転用されてゆきました。
 しかし、614年にペルシャ軍が来襲し、636年にはイスラム軍によって完全に征服されてしまいます。
 8世紀には大地震により多くの建物が崩壊してしまい、人口が急減しました。その後、12世紀に十字軍が短期駐留して以来、19世紀にドイツ人旅行社によって発見されるまで、砂にうずもれ、長い眠りに付きました。
 近年は修復作業が進み過去の姿を取り戻しつつあります。
 ジェラシュ遺跡の規模は2kmx1kmと、パルミラ遺跡やペトラ遺跡と比べれはかなり小さいのですが、ローマ人がアラブに造った都市の中で最も華麗、かつ壮大な遺跡の一つになっており、かつ、もっとも保存状態の良い町のひとつとなっています。この遺跡を見ると、ローマ時代の属州における都市生活様式の格好な事例を想像することが出来ます。外見的にはギリシャ・ローマ風に見えるジェラシュ遺跡ですが、その内実は東洋と西洋が巧みに融合し、地中海域のギリシャ・ローマ世界と、アラブ・オリエント世界の古来からの伝統と言う2つの大きな文化が調和と共生に至る道のりを見出すことが出来るそうです。



ハドリアヌス帝凱旋門

 バスを下りてしばらく坂を登ると、ハドリアヌス凱旋門に出ます。
 この凱旋門は、129年、ローマ皇帝ハドリアヌスが訪れたのを記念して建てられました。
 カンカン照りの中、この坂を登るのは大変でした。少しでも日影があるとその中に入りたくなりますが、広大な遺跡に陰になるような草木は全くありませんでした。
 



競馬、戦車競技場

 凱旋門を通ると、すぐにこの競技場脇に出ます。観光の帰りにこの競馬競技場の中に入り、見学をする予定になっていて、今は写真休憩だけです。この脇を過ぎると、また、長い道路が続きます。



南門

 競技場から約300メートルぐらい歩いたところに、この南門があります。その門を過ぎると、楕円形のフォルム(広場)に出て、その後、160本ものイオニア式の列柱道路が続きます。 
 広大な敷地の中にはたくさんの柱が林立しています。



神殿(ニンフェウム)

 さらに坂を登ってゆくと、大聖堂に出ます。丘の頂上には教会跡のニンファエウムがあります。この馬蹄形の祭壇と噴水をもつニンフエウム(泉の神殿)は西暦191年に建てられています。名前から類推できるように、半身半人の妖精ニンフに捧げられたもののようです。



アルテミス神殿

 かなり背の高いコリント式の12本の柱の建つ神殿です。アルテミスとは月の女神を意味しています。この様な高い場所に高い石の柱を建てるのは大変な技術だと思われますが、完成には100年ぐらいかかったそうです。



南劇場

 カンカン照りの中、日陰もなく、アップダウンのある広い遺跡の中を歩いていると、かなり体力を奪われます。リックに入れて持ってきたペットボトルの水ももうほとんどなくなってしまいました。面白いことに、帽子を脱ぐと、頭が氷で冷やされた様に冷たく感じます。気化熱で頭が冷やされるようです。ただ、太陽の光を遮るために、また、すぐに帽子を被ります。帽子を少し脱いだり被ったりしながら歩いてゆきました。空気は乾燥しているので、とにかく、水を飲み、汗をかけば、体温は維持できそうです。
 広い遺跡の中を歩いてゆくと、幸い今度は劇場です。座って体を少し休めることが出来そうです。たまたま日陰のある方の席に座って、体を休めていると、アラブの軍隊服を着た数人の楽師が演奏しながら場内を行進して来ました。持っている楽器はバグパイプです。この地域は1919年、イギリスの統治領になりましたが、その時代、英国の軍隊はこの楽器を使用していたようで、昔の姿が偲ばれます。
 日本から来たガイドさんが、みんな一緒に踊りましょうと呼びかけました。こちらはもう、くたくたでしたが、家内が出て行き、アラブの楽師さんたちと踊りながら、劇場を廻っていました。
 この劇場は3000名を収容でき、夏の夜には、人気アラブ人歌手によるコンサートが毎日開かれるそうです。



競技場

 ローマ時代の映画によく登場するのと同じような競技場です。一人数$で、一緒に体験でするようです。



アンマンのホテルに到着

 アンマンはシリアのダマスカスに比べ、すこし裕福なようです。素晴らしいホテルでした。


付録 ヨルダンに付いて

ヨルダン・ハシェミット王国

 正式名称は、ヨルダン・ハシェミット王国です。立憲君主制をとり、イスラームの預言者ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマの夫妻にさかのぼるハーシム家出身の国王が世襲統治する王国です。
 国民の半数余りは中東戦争によってイスラエルに占有されたパレスチナから難民として流入した人々(パレスチナ難民)とその子孫から成り立っています。

 

   ヨルダンの国旗

左の赤い三角形と、3本の水平の帯(黒、白、緑)から成る。これらの帯はそれぞれ、アッバース朝、ウマイヤ朝、ファーティマ朝を表す。赤の三角形は、現在の王室であるハーシム家及びアラブのレジスタンスを表す。第一次世界大戦中のオスマン帝国に対するアラブ側のレジスタンスの旗に基づくデザインである

 公用語はアラビア語で首都はアンマンにあります。国土面積は日本の24%程度ですが、80%は砂漠地帯に属しています。人口は630万人と日本の5%程度になり、7割は難民のパレスチナ人よりなりたっています。  
 第一次世界大戦後の1919年、イギリスの統治領に組み入れられましたが、1923年、ヒジャーズ王国の王族フサインが迎え入れられて、トランスヨルダン王国が成立しました。なお、シリアはその時、フランスの統治領に組み入れられています。
 トランスヨルダン王国は第二次世界大戦後の1946年に独立し、1949年には国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めます。1950年にはエルサレムを含むヨルダン川西岸地区を領土にくわえましたが、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに奪え返され、その地から大量のパレスチナ人が流入してきました。
 1952年成立の憲法により、国王が世襲制となる立憲君主制をとっていますが、国王は内閣と共に行政を執行する強い権限を持っています。
 1990年〜1991円の湾岸戦争では国連がイラクへの禁輸を決定し、イラクとの貿易が25%もあったヨルダンは大きな痛手を受けました。その上、パレスチア人からなるヨルダンは「アラブの正義」を掲げるイラクのフセインを応援しており、イラク支持の立場であったため、湾岸諸国やアメリカからの経済援助を打ち切られ、クウェートやサウジアフリカに出稼ぎに行っていた約30万人ものパレスチ人が追放されて帰国し、多くの収入が絶たれた上に失業率が増加しました。なお、現在はアメリカからの援助が復活しています。
 1994年、長年戦争状態であったイスラエルとの間に終戦決議が宣言され、両国間の国境は解放され、多くのイスラエル人がヨルダンを訪れるようになっています。
 アメリカはイスラエルに膨大な援助をしていますが、支援策の一つに、イスラエルからの原材料を使用した製品は無関税・無制限に購入するという優遇策があり、ヨルダンには中国をはじめ多くの外資系会社が進出し、製品をアメリカに輸出しています。
 アメリカのイスラエル支援策のお陰で、ヨルダンの輸出額の1位、2位は医療、医薬品になっています。
 ヨルダンでは石油が産出されず、ヨルダン南部で生産されるリン鉱石や天然ガスが大きな収入源ともなっています。ヨルダンの南部には世界第3位を誇るリン鉱石埋蔵量があり、この鉱石はアラビア鉄道でアカバ湾まで運ばれ、そこから輸出されています。ウラン鉱石の埋蔵量は世界の2%ていどあると言われています。
 ヨルダンのGDPは世界で90位であり、ひとりあたりのGDPも約90位に属しており、貧しい国にランクされています。
 アンマン近郊を走っていると、立派な邸宅の建設ラッシュで驚かされますが、隣国シリアのお金持ちがアンマン近郊に高級住宅を作るのがブームだそうです。
 1990年以降、民主化が進み、王室の権限に反対する勢力が台頭し、国内の不安定要素になっていますが、治安状態は非常に良好で、窃盗や盗難はほとんどないそうです。もし、仮に盗難など犯罪行為を行い、牢屋などに入れられると、その苦しさを想像することが出来ます。犯罪が少ないのも理解できます。
 パレスチナ人からなるヨルダンは、基本的に反米、反イスラエルであることには変わりません。イスラエルとパレスチア人の間に問題が起こると、デモ行為がヨルダン市内でもたびたび発生し、外務省では現在、ヨルダン全域を「十分注意すべき領域」に指定しています。
 旅行者に対しては、非常に好意的で、現在、世界各国からたくさんの観光客が押し寄せています。


             

6日目 アムラ城、アンマン城を観光後、

          ワディ・ラムの砂漠を走り、その後ペトラへ 

 今日は午前中、アンマンに東、80kmのところにあるアラム城を見学し、再び、アンマンに戻り、その後、アンマン城を見学し、ヨルダンの最南端にあるワディ・ラムに向かいます。
 そこで4輪駆動車に乗り換え、アラビアのロレンスで有名な砂漠を走り、その後、再び北のペトラ遺跡に向かいます。



アムラ城(世界遺産)へ向けて出発

 アムラ城に向けてアンマンを出発です。世界遺産に指定されたアムラ城はアンマンの東、約80kmのところにあります。典型的な砂漠の中を走ります。途中、十字路あり、方角を示す看板がありました。



アムラ城(世界遺産)
 幾つもの城が、アンマンの東方および南方に点在しています。一般には城と言うよりは家といった感じです。これらの城は、商隊の宿営地、農業や貿易の拠点、遠方から来る為政者がベドウィンと友好を図るための施設として作られています。第一次世界大戦のアラブの反乱の時代には、これらの城のひとつに、アラビアのロレンスの司令塔が置かれたと言われています。
 アムラ城の中には、8世紀の人々の生活を物語るフレスコ画がそのままの状態で保存され残っています。
 この城はフレスコ画の保存が良好なため世界遺産に指定されています。今まで見た最も小さな世界遺産でした。この城を見るために往復3時間も費やしましたが、出来たら、アンマンの人たちの暮らしを見たかった感じでした。



内部の壁画

 室内には、天体図や砂漠の動物、裸婦などの壁画が残っています。これらの絵から類推すると、この建物は8世紀頃のウマイヤ朝の王が離宮として建設され、厳格なイスラム教徒の目をそらし、王族達が快楽を享受するための離宮だったと考えられています。



首都アンマン
 バスは首都アンマンに再び戻って来ました。現在、ヨルダンの人口の約半分がこのアンマン地域に集中しているそうです。アンマンはヨルダンの主な都市から4時間以内の距離にあるため、非常に便利な都市になっています。
 歴史的にみると、ローマ時代にはデカポリス(十都市同盟)とし大いに栄え、ビザンツ時代には主教の管区として多数の教会が建てられました。7世紀のイスラム化後もダマスカスを都とするウマイヤ朝の離宮が設けられています。その後、イスラム帝国の中心がイラクやイランに移るにつれ衰退してゆきました。
 19世紀末、オスマン・トルコがコーカサス人を集団移住させ、20世紀の初めにアラビア半島のメディナへ通じるヒジャーズ鉄道が開通すると、再び人口が増えだし、1929年にトランス・ヨルダンの首都となったころには二万人以上の都市になっています。
 人口が急増したのは、1948年から1967年にかけての中東戦争によるもので、イスラエル人に追われたパレスチナ人が大量に流入してきました。この時点でのアンマンの人口は180万人で、その7割がパレスチナ人と言われています。
 その後、1990年代には湾岸戦争が、2003年のイラク戦争が発生し、50万人とも、80万人とも言われるイラク人難民がアンマンで暮らしています。
 不安定な周辺国をよそ目に、治安の良さから一種のシェルターとなっている現代のアンマンは、中東アラブ社会の金融や商業の中心地ともなっています。



アンマン城
 小高い山の頂上にあり、アンマン市内を一望できる城としても絶好な場所にあります。城からはローマ劇場が見えます。この劇場はローマ皇帝アントニウス・ピウス(138〜161)の時代に建てられ、33列6000人が収容でき、ヨルダンでは最大の劇場です。



ヘラクレス神殿

 遺跡はさほど広くなく10分程度で頂上の神殿に到着します。この神殿はローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161〜180)の時代にできました。
 丘の奥にはヨルダン考古学博物館がありました。覗いてみましあが、出土した土器などが飾ってありました。



昼食
  こちらの典型的な食事でした。ところが全く食欲がありません。食べたくないのです。この様な経験はめったにないことです。
 水だけを飲み、みなさんが食事をするのを見ていましたが、食べたくないのですから、美味しそうに食べている人を見ても、うらやましいとは感じませんでした。
 どうも昨日の暑さでやられたようです。食欲がない以外は、何一つ異状はないのですが、何か食べると、体に異常を起こしそうな予感がします。
 ツアーで同行していた人の中で、二人ほどが体の異常を添乗員さんに訴え、ホテルに到着した後で、お医者さんを呼んで貰ったようです。医療費は一人1万2千円程度だったそうですが、トラピクスの保険に入っていたため、添乗員さんがその場で処理し、無料だったそうです。バスの中でも横になったままの人が数名おりました。
 最終的には26名中、20名程度が何らかの異状に見舞われていました。ただし、結果的には観光に全く問題はなかったようです。


ベドウィンスタイル

 アンマンからワディ・ラムまで、ヨルダンの中央を縦断するデザートハイウエーを走って行きます。
 途中、トイレ休憩のため、土産物屋兼お茶屋さんに立ち寄りました。これから砂漠の中を4輪駆動車で走る時、砂が体に入らないようスカーフをベドウィンスタイルで巻くとよいようです。家内がスカーフを買い被せてもらいました。日本円で約700円程度でした。



アカバ鉄道とヒジャーズ鉄道

 ワディ・ラムに近付くとアラビアのロレンスにたびたび登場するヒジャーズ鉄道の一部であるアカバ鉄道の線路を横切りました。ちょうど貨物列車が走っていました。アカバ鉄道は貨物専用ですが、ダマスカスとアンマンの間の鉄道は巡礼者や観光車で賑わっているそうです。 
 ヒジャーズ鉄道は、オスマン帝国によって建設され、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビアの聖地、メディナを結んでおり、シリア、ヨルダン、およびアラビア半島のヒジャーズ鉄道を縦断しています。総延長は1,308kmに達します。
 鉄道は1900年に建設開始され、1908年に完成し、多くの巡礼者や兵士を運びましたが、第一次世界大戦の時代、イギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊されてしまい、線路のほとんどは放置されたままになっています。
 赤く細かな砂の大地が続きます。



ワディ・ラム

 ワディとは枯れた谷を意味し、ヨルダンにはワディの付く名前がたくさんなります。中東で見られるワディは一般に荒涼とした広く平らな場所になります。
 ワディ・ラムの入口には、比較的大きなビジターセンターがあります。映画「アラビアのロレンス」に出てくる多くの場面は、この近隣で撮影されています。
 ロレンスが軍を退任後、最初に書いたのが「七つの知恵の柱 Seven Pillars of Wisdom]ですが、その題名は、ここの岩山から付けられたそうです。



ローレンスの泉

 ビジターセンターから5kmほどバスで走ると小さな村に到着します。そこで合計4台の4輪駆動車に乗り換え、1kmほど先にあるロレンスの泉に向かいます。車はトヨタ車ですが、そのポンコツぶりには驚きました。これでも走るのですから、日本車は信頼されるのでしょう。
 砂漠の中の道路は途中からなくなり、車は適当に砂漠の中を走ってゆきます。到着すると崖の中から泉が湧き出ていて、細いパイプを使って水溜まで導いていました。ドライバーは、さっそくラジエーターに水を補給していました。



ハザリ渓谷

 ロレンスの泉から真っ赤な砂漠の中を3km程度ほど走るとハザリ渓谷の入り口に到着します。渓谷の入り口には大きな砂山があります。夕日に照らされ、赤い砂はますます赤く染められていました。



渓谷を散策

 一応、全員が渓谷の中を進んでみました。約50メートルも進むとかなり険しくなり、全員、そこで引き返しました。



砂丘

 元気な人は砂丘登りに挑戦していました。私たちはアメリカなどですでに何度か砂山登りを経験しているので、今回は登りませんでした。だいぶ日が沈んで来ました。



4輪駆動車の運転手
 この地方に暮らしているのはベドウィンで、最近は車の運転やガイドもしているそうです。小さな時から車を足代わりに使用しているらしく、小学生と思われる子供も運転手でした。この地では運転免許など無いのでしょう。



体調不良

 夕食はホテルでしたが、まだ、食欲が全くありません。熱を測ると37度8分ぐらいありました。しかし、食欲が無いのと熱がある以外、悪いところはありません。とりあえず、休養が重要だろうと判断し、今夜は食事をとらず、風邪薬だけを飲んで寝ることにしました。当然ながら、ビールを飲みたいとも思いませんでした。
 通常、熱があっても、ゴルフに出かければ、熱が下がってしまうので、多分、明日、旅行を続ければ熱が下がるだろうと予想していました。



        
7日目 終日ペトラ遺跡観光

ペトラ遺跡

  ペトラ遺跡は、行ってみたい世界遺産の上位に何時もランクされている世界屈指の世界遺産です。ヨルダンを訪れる多くの観光旅行者にとって、ペトラは最大の目的地です。なお、ペトラはギリシャ語で岩を意味するそうです。
 ペトラは紀元前4世紀の頃、アラビア半島をルーツとするナバテア人によって築かれた王国と言われています。紀元前63年に、ローマのポンペイウスが攻め入った時は金銀で懐柔して独立を守りますが、王国はしだいに弱体化し、106年、ついにローマ帝国に併合されてしまいます。それ以降、町には浴場や劇場、列柱道りなどが作られ、町はローマ風に作りかえられました。
 かって、商隊がインドからアラビア半島を横断して地中海に至るルート上で、ヨルダン高原から、海に面する交易の商業都市アカバにどうやって下るかが大問題でした。ペトラは商隊にルートを提供し、その通行税から大いに栄えました。
 しかし、363年、大地震がペトラを襲い、多くの建物が崩壊してしまいました。それ以来、人々はこの町から出て行き、6世紀になると人はほとんど住まなくなってしまいました。
 その後、7世紀にイスラム軍が到来し、12世紀には十字軍が砦を作ったりしましたが、ペトラは人々から忘れられた廃墟になってしまいました。
 1812年、ダマスカスからカイロまで行く途中でペトラの噂を聞いたスイス人探検家ブルクハルトが遺跡を確認し、世界にその存在を伝えました。
 今、この深い渓谷に築かれた王国はバラ色に輝き、その魅力に多くの観光客が押し寄せています。
 当時のローマに向かう商隊のルート図を左の赤で示します。ペトラから北に向かい、レバノンを通るルート、エジプトのカイロに向かうルートがあります。
 ペトラは今で言えば、ガソリンスタンドの様なもので、そこには水や食料があり、補給基地になっていました。水が出るオアシスが、周囲にはほとんどなかったのでしょう。
 青の線内がナバテア王国の領土です。



ホテル風景

 ホテルは Movenpic Resort Petra という、遺跡の入口のすぐ近くにあるヨーロッパ系列の豪華なホテルでした。
 今日は非常にたくさん歩く予定になっています。朝、熱を測ると7度5分程度ありました。相変わらず食欲は全くありませんが、何時までも食事をとらないと体力が持たないと考え、普通どおりの朝食にしました。有難いことに、食事を終って部屋に帰ってくると、ほぼ平熱に戻っていました。体力が戻ってきたようです。



入口から馬に乗りシークの入口まで

 ペトラの入場料には片道の乗馬料が加算されていて、馬に乗っても乗らなくても料金は同じでした。過去、何回かラクダに乗ったことは有りますが、馬に乗るのは初めての経験です。シークの入口まで約500メートルでしたが、ほぼ全員が馬に乗ってゆきました。しかし、馬に乗っているのが精一杯で、周りの景色を見る余裕は有りませんでした。
 多分に、馬に乗せるシステムは、昔から住んでいたベドウィン達へ仕事を提供する為にある感じでした。



渓谷シークの中を進む

 シークとは狭い岩の裂け目のことで、崖の深さは60m〜100mもあります。シークの途中には、水源地から水を引いてきた水路が作られています。この狭い道路は、雨が降ると、鉄砲水が押し寄せたそうです。道路は現在、平坦ですが、ペトラが栄えた時代から馬車などが通れるように石が敷かれたりして歩きやすくなっていました。シークの中央付近には、ナバタイ人が信仰していた神を象徴している霊石が置かれていました。



エル・カズネ

 シークの長さは約1.2kmですが、途中、いろいろと見学しながら約40分ぐらい歩くと、突然、目前にバラ色に輝くエル・カズネが姿を現しました。感動で体が震えたのを覚えています。
 砂岩でできたエル・カズネは上の方から崖を削り、彫り抜かれています。エル・カズネはアレタス3世と妻のシャキラットの墓として造られました。高さは約43m、幅は約30mです。
 エル・カズネとはアラビア語で宝物殿を意味していますが、この地に住むベドウィン達は神殿の最上部にある大きな壷には宝物が入っているだろうと思い、ライフルで銃撃しました。そのため、壷の前方が欠けています。壺には宝物が無かったと言われています。


ハザー通り

 エル・カズネはペトラ遺跡の入口にすぎません。さらに右の方に行くと岩をくりぬいた建物が道の両側に並んでいます。べトラ遺跡の岩は柔らかい砂岩で容易に彫れるそうです。岩に掘られた神殿は600もあるそうです。
 幾つものお土産屋さんが店を開き、ここの名物、サンドボトルを作って売っていました。ここで取れる砂を小さな瓶の中に入れ、しかも、別な色を付けた砂を巧妙に瓶に入れて注文者の名前を浮き出させています。



ローマ円形劇場

 さらに5分ほど歩くと岩肌をそのまま使用した円形劇場があります。この劇場は2〜3世紀に造られ、3000名が収容できるそうです。
 



王家の墓群

 道路を挟んで、円形劇場の反対側には王家の墓群があります。この様はお墓は数百以上も点在し、各々に名前が付けられていますが、あまりにもたくさんあり、覚える気にはなれません。
 岩肌には美しい縞模様が自然に浮き出ています。長い年月により、堆積した砂が、このような美しい模様を作ったのでしょう。
 これらのお墓は一見住居のように見えますが、事実、ペトラが世界遺産に指定されるまで、この洞窟にはベドウィンが実際に住んでいたようです。
 
 
 遠くにも、岩を彫ったお墓が見えます。かなり時間がかかりそうなので、写真だけを撮って行くのは中止しました。



列柱通り、凱旋門

 お墓群を後にしてさらに歩いてゆくと、町の中心に出ます。ここには石畳の列柱通りを中心に、ビザンチン教会、大寺院、凱旋門などがあり、その他、官庁、商店、市場、公共浴場なども並んでいました。最盛期の人口は約3万人居たそうです。
 現在、イギリス、フランス、スペインの調査隊が発掘作業中だそうですが、まだ半分も進んでいないそうです。



エド・ディル(修道院)

 遺跡のほぼ奥にある博物館近くのレストランで昼食を取り、午後は各自、自由行動です。足の悪い人は、この近くから馬に乗ったりして帰ることも出来ます。私たちはここから階段が約900段もあると言われる、ナバタイ人の神殿、エド・ディルまで行くことにしました。階段の無いところは緩やかな登りになっており、エド・ディルまで通常の足で1時間ほどかかりるそうです。添乗員さんは一番足の遅い人の後ろになって、一緒に登って来ました。
 足の弱い人はロバに乗って行くこともできますが、ロバもろとも崖から落ちる事故がけっこうあり、添乗員さんからは絶対に乗らないで下さいと注意を受けました。道を登っていると、ロバがかなりのスピードで岩道を下りて来ます。仮にこちらがぼんやりしていると、ロバと正面衝突してしまいます。道路の端によって、ロバが通り抜けるのを待つしかありません。
 



エド・デイル修道院

 山の頂に到着するとエド・ディル修道院が姿を現しました。この修道院は、幅50m、高さ40mあり、エル・カズネよりも大きくなっています。ナバテア人が1世紀のころに造った神殿で、2階の塔の頂部には3本の縦の棒と円の模様の繰り返しがあります。これをナバテア様式というのだそうです。
 修道院の前には、そこを見降ろすことが出来る小高い岩山があり、私たちも登ってみました。
 そこは非常に見晴らしが良く360度見ることが出来ます。周りを眺めていると、ここよりもさらに高いところがだいぶ向こう見えます。ここまできたら、行くしかありません。
 



頂上

 家内はもう歩けないと言うので、一人で奥の頂上まで行ってきました。そこにはお土産屋さんがあり、現地の人が一人、店番をしていました。ここまではあまり人が来ないようで、誰も居ませんでした。

 

 しばらく休憩し、山を下りて行きました。。添乗員さんが、一番後になった私たちの無事を見届けると、私たちの後ろから下りて来ました。山を下りる途中でペットボトルを二人で2本買い、飲み干しました。とにかく喉が渇きます。
 結局、エド・ディル見学には、往復、2時間以上もかかりました。



来た道を帰る

 坂を下りると、レストラン近くの博物館に出ます。ここからホテルまで、約3kmです。喉が渇き、ここでもまた、ペットボトルの水を2本買いました。
 とりあえず、まだ、馬に乗るほどではないので、ゆっくりと歩いて帰ることにしました。もう、観光客はほとんどおらず、現地の人たちも、帰り支度をしていました。
 エル・カズネまで来て一休みすると、犬が死んだように眠っています。死んでいるのではないかと触ってみると、眠っているだけようです。こちらの犬は、警戒心が全くないようです。
 

 疲れた人は馬車に乗って帰ることができます。

 

 今朝、馬に乗った道路を今度は歩いて帰ります。馬に乗っていた時は気が付かなかったのですが、4つの尖塔をつけた2階建てのオベリスク墳墓がありました。
 いよいよ、ペトラとお別れし、もうすぐホテルに到着です。今日は本当に疲れました。ホテルに到着するとすぐにベットに横になりました。午後の5時頃でした。
 多分に、昨日は熱が8度近くもあり、食事をほとんど取らなかったためかも知れません。
 今夜も体調の関係か、ビールを飲む気にはなりませんでした。



       
8日目 ペトラから死海へ。死海で浮遊体験

 今日はペトラをたち、一路、キングスハイウェイ―を通ってアンマン方向に向かいます。
ヨルダンにはデザートハイウェイとキングスハイウェイ―が平行して走っています。キングスハイウエーは大きな町を結んで走っているので、時々、町の中を走ります。お昼頃、アンマン近くのアバダに到着し、そこで昼食を取り、ネボ山を通り死海のホテルに入ります。そこで、浮遊体験を行います。


ホテルを出発

 バスは再び砂漠の中を走ります。時々民家の多い道路の脇を走ります。オアシスのあるところに家を作るのでしょうか。ヤシの木などが生えています。
 



マダバ 聖ジョージ教会

 アンマンの南30kmのところにあり、キングスハイウェイ―の入り口でもあります。町にはたくさんの教会があり、ウールのカーペット屋やモザイクグッズのショップなどの土産物屋が軒を連ね、たくさんの観光客で賑わっていました。
 ヨルダンのキリスト教徒の多くはこのマダバに住み、市民の35%から40%はキリスト教徒だそうです。
 聖ジョージ教会を有名にしているのは、世界最古の地図と言われるキリスト教の巡礼地図です。6世紀の聖地エルサレム周辺がモザイク画で、教会の床に描かれています。このモザイク画は20m×8mもあり、それに要したパーツは230万個で、計算によると、1年と3カ月もの時間をかけて制作されたといわれています。
 



ネボ山
 ネボ山は砂漠の中にある標高800メートルの山で、預言者モーゼ終焉の地と伝えられています。エジプトを出たモーゼ一行が、シナイ山で十戒を授かった後、ユダヤ人を救うため、このネボ山で民衆をパレスチナに向かわせ、モーゼ自身はネボ山に残り、ここで昇天したと言われています。そして、旧約聖書に出てくる、「あれが約束の地だ」という言葉が発せられた場所だそうです。
 モーゼが杖で地を叩くと水が湧き出て泉になったと言う伝説の泉が遠くに見えます。何台もの車が停まっているのが見えますが、モーゼの泉を見学しているようです。ここはイスラエルのエリコと言う聖地への巡礼街道ともなっています。近くに、モーゼを記念する博物館がありますが、ちょうど修理中で入ることは出来ませんでした。

 なお、モーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などを生み出すもとになった、もっとも重要な預言者の一人とされています。
 旧約聖書はユダヤ人と神との間の約束を書いた物語で紀元前4世紀ごろに書かれ、新約聖書はそれを元に、キリストと神との間の約束を書いた物語で、キリスト誕生後の西暦1〜2世紀ごろにまとめられたと言われています。また、6世紀ごろ、ムハンマドを元祖とするイスラム教が、キリスト教から分かれて行きました。ルーツが同じのこれら3つの宗教の間には、現在、何かと争いが起こっていますが、これら3つの宗教の聖地はイスラエルのエルサレムに隣接してあり、多くの巡礼者が訪れています。
 



死海へ

 バスは標高800メートルのところから、海抜マイナス410メートルまで一気に下って行きます。途中、羊の群れに出会いました。
 死海はヨルダンとイスラエルの国境にある920平方mの湖で世界で最も低く、北からのヨルダン川をはじめ、多くの川が注ぎこみ、行き場が無くなった水は蒸発し、後には塩とミネラル成分を豊富に含んだ濃厚な混合物が残されます。この混合物は工業、農業、医療分野などで、最高品質の原料として利用されています。
 海水の塩分濃度は3%ですが、死海の塩分は海水の約10倍の約30%だそうです。高い塩分濃度のために、魚類の生存は不可能で、特殊な生物しか生きられないそうです。それがゆえに死海と呼ばれているそうです。
 


水着になり死海へ

 ホテルに到着後、約30分程度の休憩を取り、浮遊体験の希望者は水着になり、全員一緒になって出かけました。一応、脱衣を置く場所や、海水浴後のシャワーなどの設備が整っています。
 



浮遊体験

 死海の比重は1.33で、体の3割は水面上に出ます。そのため誰でもそのままで顔を出して浮く事が出来ます。ただ、海水が目に入るとかなりの痛みを感ずるため、頭を水に付けることは出来ないようです。誰かが、海水が目に入ったため、大きな声で「痛い」と言っていました。
 死海に入り、新聞や雑誌を読みながら浮かぶ姿は、記念写真の定番なのでしょう。ツアーの人も、雑誌や新聞を持ってきて、記念写真を取っていました。
 真っ黒な泥のミネラルを肌に塗るのもここの名物だそうで、肌を気にする女性には歓迎されているようでした。
 



      
9日目 アンマンからドバイへ。
           到着後、ドバイ観光。


イスラエルを望む

 朝日が昇る頃、湖畔を歩いてみました。死海の向こうはイスラエルです。
 現在、ヨルダンとイスラエルの間では、国境が確定しており、イスラエルに入るには厳重な検査があるものの、入出国は可能になっています。そのため、たくさんのヨルダン、イスラエルツアーが開催されています。一方、シリアとイスラエルはゴラン高原をめぐって戦争状態にあるため、シリア、イスラエルのツアーは開催されていません。
 死海の向こう側はイスラエルと言えども、ヨルダン川西岸地区と言われる紛争地帯で、パレスチナ人とユダヤ人の間で何時も紛争が起こっています。ユダヤ人はパレスチア人を憎み、パレスチア人はユダヤ人を憎みながら、同じ地域に住んでいるのですから、解決には時間がかかるうえ、ますます、複雑になっています。
 なお、ヨルダン川西岸地区はパレスチナ自治区とも言われていますが、パレスチナ人にはいろいろな制限が課せられており、なにかとイスラエルの許可が必要だそうです。
 
 
 いよいよ今日は成田に向けて出発です。アンマン空港を1115分にたち、ドバイ到着は午後310分でした。その後ドバイを見学し、空港で時間を過ごし、午前315分発のエミレーツ空港で成田へ向かいます。



アラブ首長国連合(United Arab Emirates, UAE)

 

 首都アブダビをはじめ、ドバイ、シャルジャ、アジマン、ウム、アルクワイン、ラスアルカイマ、フジャイラの7つの首長国で形成されている連邦国家です。建国は1971年で、英国が撤退した後、アブダビ前首長の呼びかけで成立しています。来年は建国40年となります。各首長国は、首長(王様)を中心とする絶対君主制です。大統領はアブダビの首長が、副大統領にはドバイの首長がなるようです。1958年アブダビ沖で、1966年ドバイ沖で油田が発見され、その後、この二つの首長を中心に発展してゆきます。油田が発見される前は、砂漠で暮らす遊牧民と、漁業や真珠など海で暮らす人たちから成り立っていました。
 首長国連合の面積は北海道とほぼ同じで、ドバイ首長国は奈良県とほぼ同じです。一つの首長国は日本の県と同じ程度と考えられます。ただし、人口は非常に少なく500万人程度で、しかも80%以上は外国から働きに来ている人達です。ドバイの人口は180万人で、150万人はインド、バングラディッシュ、日本などから働きに来ている人たちです。また、外国からの労働者は単身で来るのが原則のため、男性の比率が非常に高くなっています。
 言語はアラビア語ですが、外国人が多いため、英語が良く使用されます。
 宗教はイスラム教を国教としておりほとんどがスンニー派に属しています。
 国内総生産GDPは世界の35位程度とほぼタイと同じで、日本の4%程度でになります。収入は完全に石油に依存しており、その生産量は世界の3.6%になっています。石油輸出による収入は王族が完全に握っており、想像を絶するお金持ちが多いようです。1人当たりに直してGDPを計算すると日本よりは少ないものの、ほぼ先進諸国並みになっています。



ドバイ

 沸騰都市と騒がれたドバイも、リーマンショックにより、ドバイショックを生み出すなど、何かと話題になっています。
 空港は驚くほど豪華に造られており、お金持ちの国であることを演出しているようです。
 バスにより市内見学でしたが、とにかく高層建築が目立ちます。上海にも高層建築がたくさん建っていますが、とにかく上海とは人口が圧倒的に違います。世界中から観光客を集めようと頑張っていますが、とにかく暑くて、その上、海に面しているためか、砂漠地帯であるにもかかわらず、湿度が高く、過ごすには適していないようです。人工的な樹木、芝もありますが、常に水の補給が必要です。
 道路脇にはモノレールの様なメトロが走っていました。
 ドバイは、元来の石油埋蔵量が少なく、石油依存型経済からの脱却を目指していました。特に1980年代の半ば頃から産業の多角化を積極的に進め、中東における金融と流通、および観光の一大拠点となるべく努力してきました。外国企業や資本を導入するため、投資の自由化や外国人労働者の自由雇用を保障してきました。その結果、アメリカ、イギリス、日本など世界各国の大企業がドバイに進出し、超高層ビルが林立するほどに発展しました。しかし、アメリカのリーマンショックにより、多くの企業の投資が引き上げられドバイショックを引き起こしました。しかし、現在も、中東における最大の金融センターであり、多数の労働者で町は賑わっていました。
 親分肌のアブダビは、現在、オイルマネーで潤っており、ドバイを助けていますが、アブダビがアメリカの倒産が危惧されたシティーグループを救うなど、予想を越えた行動が可能であり、今後の繁栄が注目されます。
 ドバイを歩いていると、日本車の多さに驚きます。シリア・ヨルダンとは全く反対です。ここでは高級車が好まれ、多少の価格差は問題にされないのかもしれません。しかし、韓国がアブダビの原子力発電所を受注し、日本を下請けに使うほど、この地域でも頑張っています。ウオン安が韓国に味方をしているのは間違いありませんが、日本も、国家レベルで円安誘導に努力するなど、しっかりとした作戦を持っていないと、貧乏国へと脱落しかねません。円高を利用し、海外に投資し、結果的には外貨を購入することによって円安誘導に導くなど、国全体としての方向を明確に示す必要があると思います。
 



シェイクサイード邸
 現在のドバイ首長シェイク・モハメッドの祖父にあたるシェイク・サイードが住んでいた邸宅で1896年に建てられました。1986年から博物館として公開されており、ドバイの数少ない歴史的建造物のひとつになっています。今回は夜遅いこともあって、外から見るだけでした。
 



スーク

 ゴールドスーク、オールドスークなど、イスラム圏ではどこにでもあるスークがここにもあり、金や日用雑貨、スパイスなどが売られています。ゴールドスークの金のアクセサリーは重さで決まり、どの店で買っても同じだそうです。非常に大きなスークで、町全体が金を売っているような感じです。世界一安全なスークだそうです。
 



水上タクシー

 ドバイはドバイクリークと言うかなり広い川で東西に分断されています。橋は少ないので、もっぱら水上タクシーが湾内を結んでいます。博物館のある西側の町からからスークに行くときに、水上タクシーを使用しました。
 



ドバイ博物館

 ドバイの歴史が飾られている立派な博物館でした。



ドバイモール前の風景

 ドバイの夜景です。ドバイショックなど関係ない豪華な風景です。



ドバイモール

 ドバイには驚くほどたくさんのショッピングモールがありますが、このドバイモールは完全に世界一の規模を誇り、2008年10月に開店しました。中央にはとても大きな水族館があり、外からは無料で見ることが出来ます。
 一流のブランド店がたくさん入っていますが、家内の話によると、銀座よりも3割程度高いそうです。
 とにかく賑わっていました。
 



噴水ショー

 ドバイモールの前にある世界一大きな噴水です。ドバイはなんでも世界一を目指しています。この噴水ショーは30分おきに行われます。音楽とともに噴水が吹きあがります。
 



ドバイ空港へ

 9時からの噴水ショウを見学した後、ドバイを後にし、空港に向かいました。
 空港内では、朝の3時15分の出発まで、横になれる椅子を使用して、時間をつぶしました。
 



       
10日目 夜間にドバイを立ち成田へ

ドバイから成田へ

 出発すると間もなく夕食が出ました。今回も食事が終わった後にビールなどのアルコール飲料が出て来ました。お酒を飲まないアラブ国の精一杯のおもてなしなのかも知れません。
 成田までの飛行時間は偏西風に乗り9時間45分で、成田到着は午後6時でした。
 

 今回の旅は、何かと政治不安のあるシリア、ヨルダンでしたが、両国とも観光業に力を入れており、問題は何一つありませんでした。少なくともイタリアやスペインよりは盗難などが少なく、安全のようです。ただし、イタリア、スペインなら、一人旅も問題ありませんが、風習がかなり違い、また、文字を読めない国の一人旅はとても自信がありません。以前、個人旅行で中国へ行った時、何かと付きまとわれて嫌な思いをしたことがありますが、中国よりは、ずっと安全でした。
 今回は暑い砂漠の中の観光が多かったためか、26名中、約20名が体調を崩しました。数週間前ははるかに暑かったそうですが、あと数週間、遅いツアーにすれば良かったかと思います。






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