マイカーで自宅から九州一周12日間
2012年4月26日〜5月7日
 子供たち夫婦が連休を九州で過ごしたいというので、それに合わせ私たちはマイカーで出かけました。連休の途中、数日間、子供や孫と合流しました。
 走行距離は4,500kmでした。
 



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 再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。



観光内容
1日目 自宅から広島県福山まで
2日目 福山から鹿児島県の桜島観光後、霧島温泉へ
3日目 高千穂峡から阿蘇山経由諫早へ
4日目 長崎市内と島原半島、諫早湾観光
5日目 諫早から福岡空港経由福岡県芦屋町へ
6日目 小倉地区観光
7日目 吉野ヶ里遺跡、熊本城見学後天草へ
8日目 天草半島観光
9日目 天草をから熊本の田原坂を通り福岡どんたく祭りへ
10日目 山口県萩市を観光後、秋芳洞見学
11日目 秋芳台観光後帝釈峡を散策し姫路へ
12日目 姫路から第二東名を通り、一路自宅へ

     

1日目 自宅から広島県福山まで

 千葉の自宅を朝5時に出発し、4月14日に開通したばかりの第二東名を通り、今夜の宿泊地福山に向かいました。途中、第二東名では猛烈な雨に見舞われましたが、四日市を過ぎるころから雨がやみ、福山に到着した時は晴天になっていました。走行距離は約750kmでした。


福山城
 
 夕食前、駅に隣接する福山城を見学してみました。まだ、八重桜が咲いていました。
 福山城は大阪夏の陣の4年後、福島正則が改易され、越後10万石の領主として入封した水野勝則が3年の歳月をかけて築いたお城です。天守は昭和20年、太平洋戦争末期の福山大空襲により焼失してしまいましたが、現在のお城は昭和46年再建されています。日本100名城の1つと言われています。お城の内部は博物館になっています。写真は禁止でした。
 遅かったためか、私たち以外は誰もいませんでした。
 

     
2日目 福山から鹿児島県の桜島観光後、霧島温泉へ
 
 福山から霧島温泉まで、約700km走りました。
 壇ノ浦バーキングです。九州はもうすぐです。
 なお、壇ノ浦は平家が滅亡した場所として有名です。香川県屋島も源平合戦で有名ですが、屋島では平家が壊滅的打撃を受け、山口県の壇ノ浦まで落ち延びますが、ここで源氏に滅ぼされ、滅亡します。
 この時の源氏の大将は源義経でした。
 



城山

 鹿児島到着は午後2時ごろでした。鹿児島城山と西郷隆盛がたてこもった洞窟あとも見てみました。 



桜島へフェリー

 まだ、時間がたっぷりとあったので、フェリーで桜島に行ってみました。フェリーは驚くほど簡単で、フェリーに車を乗り入れるとすぐに出発し、到着すると高速道路の料金所のようなゲートがありそこでお金を支払うだけでした。
 時々すごい噴火が起こり、黒煙や蒸気を噴き上げています。噴火の大きさは大きくなったり小さくなったりしていました。
 


 
 桜島の標高は1117mですが、373mのところに湯の平展望台があり、登ってみました。山腹には野生のつつじがたくさん咲き、美しい風景を作っていました。 


 海に接した有村溶岩展望所には、溶岩を見ながら1週20分ぐらいの散歩道があり歩いてみました。時々、大きな噴煙を噴き上げていました。どうも、2か所から煙が出ているようでした。

 桜島観光後、今夜の宿泊地、霧島温泉に向かいました。

     

3日目 高千穂峡から阿蘇山経由諫早へ
 
 霧島温泉から一般道を通り高千穂峡へ向かいました。その後、阿蘇山頂の噴火口を見て今夜の宿泊地、諫早に向かいました。諫早に宿を取ったのは明日の観光地、長崎と島原半島の中間にあるためでした。。


高千穂峡
       
 阿蘇山から流れ出た溶岩によって作られた峡谷で、大きな柱状のそそり立つ断崖や、船を浮かべる穏やかな谷、また、流れ込む滝は、日本の滝100選に選ばれているそうです。五月の連休のため、大変混雑しており、ボートを借りるまで1時間弱待たされるようでした。 


高千穂神社
 日本神話にあらわれる歴史ある神社ですが、現在の本殿は、1778年、延岡藩主により、改築されています。 



阿蘇山頂
 
 阿蘇山は世界でも有数の大型カルデラで雄大な外輪山を持っています。今も噴火が続く活火山です。阿蘇山の最高峰、高岳の標高は1592mですが、火口のある中岳は1506mと少し低くなっています。
 山頂のすぐ近くまでロープウエイで結ばれていますが、車でも行くことが出来ます。
 火口の直径は約600m、深さ約130m程あり、吹き上がる溶岩の温度は1000度〜1200度に達するそうです。火口に溜まった雨水はお湯となり50〜80℃だそうです。溶かされた鉄と銅の成分により青緑色になっています。

     

4日目 長崎市内と島原半島、諫早湾観光
  
 長崎周辺の地形はかなり複雑で関東育ちの私は地図を見ないと、なかなか理解が出来ません。
 今日の観光は長崎と島原半島ですが、合わせて、昨日行った阿蘇山や、のちに尋ねる熊本や天草も地図に書き入れてみました。
 



平和公園

 まず、平和公園を訪ね、そこに車を停め浦上天主堂まで歩いてみました。まだ、朝早いこともあって、人はあまりいませんでした。
 1945年8月9日午前11時2分、投下された原子爆弾によりこの付近は原型を留めぬほど破壊されてしまいました。
 



浦上天主堂

 長崎には広島の原爆ドームのような原爆の悲惨さを示す遺産がなぜか残されていません。この天主堂は下の写真のようにそのほとんどが破壊され、数年後市内が再興されると観光バスが訪れるほどの原爆遺産になっていましたが、投下から12年後、当時の市長と教会の司教は今までの態度を急変させ完全再建を強く主張しました。それに対し議会や市民の多くは遺産として残すべきだと主張し署名運動などを起こしますが1959年に再建されています。なぜ市長と司教が態度を急変させたのかは今なお謎だそうです。  
   
 


出島

 長崎と言えば、第一に思いつくのが原爆ですが、その次は歴史で習った出島でしょうか。
 2006年、当時の状態を復元した「出島」がオープンしました。
 以前、長崎を訪ねたときはまだありませんでしたので、初めての見学でした。 

家内が一句作りました。「南吹く長崎出島の古標」

 
 



長崎港祭り

 連休のちょうど真ん中、長崎では港祭りが行われており、いろいろな帆船が停泊していました。それを見るためでしょうか、ものすごい人出で、どこの駐車場もいっぱいです。
 長崎は以前観光したことがあるので、次の目的地、雲仙普賢岳に向かいました。



千々石町清水棚田

 島原半島と天草は雲仙天草国立公園に指定されています。島原半島には天草塩原の乱で有名な島原城や原城址があります。今回は時間がなく、島原城の観光は割愛しました。
 雲仙岳に向かい、車が標高を挙げてゆくと、清水棚田の看板が出ていたので、写真に収めました。日本棚田100選に選ばれているそうです。



雲仙普賢岳ロープウェイ
   
 1991年6月3日、大規模火砕流が発生し、死者43名を出す大惨事を引き起こしました。
 死者の内訳は、マスコミ20名、消防団員12名、県警機動隊員2名、住民6名、火山学者3名でした。マスコミ関係の死者が多かったのが特徴ですが、たくさんの火山記録が残されています。
 噴火により、普賢岳(1359m)よりも高い山が出現し、平成新山(1486m)と名付けられました。普賢岳より127mも高くなっています。
 ロープウェイで、妙見岳駅展望台まで行くことが出来ます。そこから、ハイキング道路が普賢岳山頂まで行けるそうです。



大野木場砂防みらい館
 
 島原半島は世界ジオパークに指定されています。この未来館は災害で破壊された旧大野木場小学校の隣に造られています。
 災害から20年たち、災害の爪痕はほとんど無くなっています。東北の大震災も必ず震災前の姿になると確信しました。



諫早湾干拓
 
  有明海は東京湾よりも大きく、潮の満ち引きも日本最大で大きな干潟が出現することは、高校時代の地理で学んだことがあります。地図を見ていると、有明海にはその周りの佐賀県、熊本県、長崎県などに降った雨水が流れ込んでいることがわかります。そのため、塩分濃度は激しく変化し、淡水化されたところもあり、河川から流れ込んだ土により、干潟が沖まで伸びています。有明海の面積は 1,700平方kmもあります。
 諫早湾には多良岳南部に降った雨水が本明川に集まり流れ込んでいることが分かります(左の地図の赤線内)。湾内の海域の面積は 65平方kmと有明海全体の約4%を占めています。水門を常時開放するか、水位調整のために開閉するかに拘らず、すべての雨水は有明海に流れていくことになります。


 諫早湾が面する有明海は浅いところが続き、潮が引くと海岸から沖合へ5〜7kmもの干潟が現れます。
 有明海の潮の満ち引きは日本でも最大クラスで6mもあり、潮の満ち引きにより海から運ばれた土が干潟を作り、干潟は自然と広くなって行きました。そのため、干潟の奥にある陸地では、排水が困難になったり、大雨の被害を受けやすくなっていました。特に大潮満潮時に大雨が降るとその被害は甚大でした。また、ゼロmよりも低い農地は雨の被害を受け易くなっていました。
 1957年、諫早市では586人の死者と行方不明者を出す諫早大水害が発生しています。
 このような洪水や高潮から農地や宅地を守るための干拓事業が開始されたのは平成元年(1989年)の24年前でした。その事業によって造られたのがこの道路を兼ねた堤防で、大きな水門が作られ、諫早湾内の水位はマイナス1mになるよう調整されるようになりました。満潮時には水門を閉じ、干潮時には水門を開き、湾内の水位が上がらないようにしたのです。そのため、湾内は淡水となり、環境が大幅に変化しました。今は淡水系の動物や植物が増えつつあり、水門を開けて塩水を入れると、今度は淡水系の動植物が被害を受けるようになります。防波堤で区切られているため、堤防内の水はよどみ、透明度は非常に悪くなっています。
 諫早湾の干拓事業が開始された後、今までは宝の海と言われた有明海で、泥の沈澱、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど大量の漁業被害が発生したとして漁協協同組合が干拓事業に猛反対を表明し、裁判が開始され、2004年、一審の佐賀地裁では工事中止の仮処分を決定しました。しかし、2005年、福岡高裁は仮処分を取り消し、工事が再開されました。この干拓事業は2007年に完工しまし、この道路も同じ年に完成しています。
 裁判では魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響も討論され、海苔養殖業者と他の漁業者間での争も発生しています。真の原因を探るのは難しそうです。
 その後再び裁判が開始され、2010年、福岡高裁は、「5年間の潮受け堤防排水門開放」を国側に命じる判決を下しました。2010年、関直人首相はその判決を受け入れると表明しましたが、2011年、諫早市の住民や干拓地の入植者、長崎市の農業に関する各種組合が開門に反対し、長崎地方裁判所に提訴しました。
 巨額の工事費用や漁業補償を支払いながら完工したこの事業は、今や元に戻すことは不可能で、再び門を開くのか湾内の水位を保つかが問題になっています。
 関直人首相の決定に対し、アンケートによると国民の半数以上が首相の開門の決定を支持すると答えていますが、電話のアンケートに対し、諫早湾のデリケートで複雑な問題をどの程度理解して答えたのかは疑問です。だからこそ、関直人総理大臣は人気取りに利用したという穿った考えも浮かびます。どこまでが真実で真の原因は何か、わからないまま情報戦がおこなわれ、マスコミの情報に左右され、首相の人気取りに利用されようとしてます。
 日本の稲畑は余り気味で、休耕すると国から補助金をもらえる時代になりましたが、環境重視か、人命や水害防止を重視するのか、また、漁業と農業との対立、補償費獲得など、多くの問題を抱えながら諫早湾は、日本の政治を見続けて行くことになります。



 宿についた後、諫早市内を少し歩いてみました。駅は昔懐かしい姿をしていました。

      

5日目 諫早から福岡空港経由福岡県芦屋町へ

  午後1時ごろ、子供たちが孫を連れて福岡空港に到着します。その後一緒に今夜の宿泊地、芦屋に向かいます。


 ホテルのフロントで諫早の観光ポイントを聞いたところ、諫早公園のつつじは満開だとのこと、小雨でしたが行ってみました。
 公園にある眼鏡橋は重要文化財に指定されています。造られたのは1839年(天保10年)でした。この橋は水害でも流されない頑丈な橋を目指し、長崎の眼鏡橋を参考にして作られました。
 1957年の諫早大水害でもこの眼鏡橋は欄干の一部が破損しただけでしたが、この橋がせき止めた流木やがれきが水の流れを変え、死者・行方不明者580名も出した一因にもなったと言われ、解体されることになりました。しかし当時の市長の熱心な働きにより、1960年、この諫早公園に移設されました。この橋はその後重要文化財に指定されています。



太宰府天満宮
           
 この天満宮は、学問の神様、菅原道真公(天神さま)を祭り、受験生にも大変有名です。また、天神さまをお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられています。
 道真公は、承和12年(845)に京都で生まれ、学問を積み、一流の学者・政治家・文人として活躍しましたが、政略により、無実ながら京都から大宰府に流され、903年、道真公はここで生涯を終えています。
 連休のため雨にもかかわらず、大変な人出でした。

 

 連休の真ん中で宿を取るのに苦労し、結果的に芦屋町になりました。幸い、二部屋続きの大きな部屋が取れました。
 明日も泊まり二連泊です。

     

6日目 小倉地区観光

 ホテルは海に面し、眺めは快適でした。


 
 ホテルの近くに鎮国寺というつつじのきれいなお寺があると聞き、行ってみました。もうすでに満開は終わっていました。
 

皿倉山
   
 皿倉山ケーブルカーで山頂まで登ってみました。小倉地区を一望でき、遊園地スペースワールドも直下に見えます。
 通常なら車で直接山頂まで行けますが、連休中はケーブルカーで行くよう、車の通行が制限されていました。そのためか、閑散としていました。



門司レトロ地区

 明治時代の歴史ある建物が保存されている門司レトロ地区を散策してみました。
 ここも、人でいっぱいでした。
 

      

7日目 吉野ヶ里遺跡、熊本城見学後天草へ

吉野ヶ里遺跡

 吉野ヶ里遺跡は弥生時代を代表する遺跡です。弥生時代とは紀元前3世紀ごろから紀元後3世紀までの600年を称し、稲作が定着した時代とも言われています。この吉野ヶ里遺跡は2世紀ごろの姿を示しています。
 弥生時代の後は、良く知られたように、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と移って行きます。
 縄文時代には、北と南から人々が日本に移住して来て、土器を使用し、煮ることによって、どんぐりなどの渋みを取り、また、栗などを主食として暮らしていましたが、弥生時代になると、たくさんの人が大陸から船を使用し、日本に渡ってきました。いわゆる渡来人です。当時、中国など大陸では、すでに文化がかなり進み、また、民族間の争いが続き、負けた人たちが日本に渡って来たと言われています。
 この人たちは日本に稲作技術や鋭い槍の製造技術など多量の技術を持ち込んで来ました。文字(漢字)もこの頃、入ってきたと言われています。
 その人たちは部落を守るため、部落の周りに厳重な柵を設けたり、見張り台を作るなど、日本古来の縄文人との戦いや、渡来人同士の戦いに備えていました。また、稲作が盛んになるにつれ、水や土地を得るための争いも部落間に起こってきました。
 この遺跡からは斧や槍、農機具など、たくさんの鉄製品が発掘されています。それらの技術も朝鮮や中国からもたらされました。
 当時の日本の状態を示す記述は、中国の魏志倭人伝に記載されており、日本最初の女王、卑弥呼についても記述されています。残念ながら、日本国内からは、当時の様子を示す文章は発見されていないようです。
 遺跡はかなり広く、歩いて遺跡の奥にある北墳丘墓まで歩いて行き、帰りは無料バスを使用しました。
 たくさんの建物や内部の生活様式などは、いろいろな資料を基に推定して制作されたものですが、青森県の三内丸山遺跡が縄文時代であったこともあり、相当部分が全くのロマンによる推定であったのに対し、この遺跡は、より正確であると言われています。


北墳丘墓
 
 当時のお墓がそのまま保存されています。当時の歴代の王などのお墓であろうと推定されています。
 甕を使用した甕棺墓列は北九州独特のものだそうです。
 なお、展示されている棺は本物だそうです。棺の中らは鉄製の剣なども発見されています。


熊本城

 加藤清正のお城として有名です。日本三名城(熊本城、名古屋城、姫路城)の一つに数えられてます。
 西南戦争のとき、熊本城は政府軍の重要拠点となり、西郷軍はこの城を重要攻略目標としました。その戦いにより、天守閣を含むほとんどが焼け落ちましたが、政府軍はお城を守りぬき、西郷軍は撃退されてしまいました。 現在のお城は 1960年、熊本国体開催と築城350年を期に外観が復元され、内部は鉄筋コンクリート造りとなっています

 家内が孫たちに歌を教えました。
 「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ。
」 



本丸御殿

 2007年、築城400年に際して、本丸御殿が復元され一般展示されています。前回来たときはありませんでしたので、内部を見学してみました。
 まだ、真新しいのですが、あと50年もたてば、貫録が付いてくるでしょう。

 
 

 熊本城観光後、今夜の宿泊地、天草に向かいました。天草半島周辺には数千の島があるそうです。
 美しい風景が続きます。
 

     

8日目 天草半島観光

天草キリシタン館

  
  館内にはちょうど国指定重要文化財である「天草四朗陣中旗が公開展示されていました。光により劣化しないよう、旗はかなり暗いところに飾られていました。

 天草と言えば第一に思いつくのは天草四朗に代表されるキリシタンの反乱とキリスト教の弾圧でしょう。
 このキリシタン館にはそれらの歴史が展示されていました。写真は禁止でした。
 当時のキリシタン布教と天草キリシタンに関し、少しまとめてみました。
 高校の歴史でも習いますが、日本にキリスト教を初めて布教したのは、イエズス会のフランシスコ・ザビエルで、戦国時代のさなかの 1549年でした。ザビエルはスペイン生まれですが、ポルトガル王ジョアン3世により派遣されています。
 ザビエルは時の権力者織田信長の庇護を受けることに成功し、順調に信者を増やしてゆきました。なお、それをさかのぼる6年前の 1543年、ポルトガル船が種子島に漂流した時、信長は火縄銃の技術に興味を示し鉄砲の技術を取り入れています。
 しかし、豊臣秀吉の時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が仏教徒を迫害するなどの例が増えて行き、秀吉は脅威を感じるようになっていました。一揆などに苦しめられた経験を持ち、キリスト教徒を警戒した秀吉は、キリシタン大名の元締め格の高山右近に改宗を命じます。しかし右近はそれを拒否し、その結果、秀吉から改易されてしまいます。
 右近の改宗の拒否に秀吉はますます脅威を感じ、1587年、ついにバテレン追放令を発布します。この令はキリスト教徒による神社仏閣の打ち壊しの禁止と、宣教師の20日以内の国内退去命令で、宣教師による布教活動を禁止したものであり、個人的にキリスト教を信仰するのは自由でした。そのため、一般民衆がキリスト教徒であるのを禁止するものではありませんでした。しかし、これを契機にキリスト教徒を捨てる大名も増えて行きます。
 宣教師たちは長崎県の平戸に集まり、20日以内の退去は無理と願い出て許可されます。公然とした普及活動は控えるようになりましたが、秀吉は南蛮貿易による実利を重視し、多少の布教活動には黙認していました。
 しかし、1596年、スペイン船が土佐に漂着した時、増田長盛はどのようにしてフィリッピンを征服したのかとスペイン航海士に尋問します。それによると、まずは宣教師を派遣し、その後、軍隊を入れて征服するということを聞き出します。
 それを聞いた秀吉は、宣教師の後ろに強大なスペイン・ポルトガルの居るのを知り、ますます、脅威を感じるようになります。そして、宣教師の追放とキリシタンの撲滅に動き出します。
 このころ、イエズス会に先を越されたフランシスコ会士たちは、秀吉の布教禁止令を無視し、京都などで公然と布教活動をしていました。秀吉は外国から来ていたフランシスコ会士6名と日本人修道士など18名を捕えます。逮捕された一行は左の耳たぶを切り落とされ、鼻をそぎ落とされ、京都、大阪など幾つもの市内で見せしめとして引き回され、長崎に連行されます。途中、2名が捕えられ、合計26名となり、全員が磔の刑により処刑されました。
 処刑された人たちの中には十代の青年が4名もおり、遺体は1ヶ月、磔のまま放置されました。
 これに続き、多くの宣教師が国外に追放され、教会は破壊されて行きました。
 1598年、秀吉が世を去り、再び、イエズス会に転機が訪れます。秀吉の死後、わずか9ヶ月の間に4万人もの人がキリスト教徒に改宗したと言われています。
 1600年、家康が関ヶ原の戦いにより実権を得ると、宣教師たちは家康にバテレン追放令の廃止を願い出ます。南蛮貿易を重視していた家康は、即答は避けたもの、キリスト教を認める発言をします。
 1600年、豊後に漂流したオランダ船の船長であるイギリス人のアダム・スミス(三浦按針)を家臣として召し抱えます。彼は二度とイギリスには戻れませんでしたが、日本人妻と結婚し、一生を日本で過ごすことになります。スミスはカトリックを敵視するプロテスタントでした。
 1601年、カトリックは秀吉の弾圧から息を吹き返し、長崎にはイエズス会の教会がたてられ、天草にはたくさんの教会が作られました。これ以降、キリスト教の布教は順調に進んでゆきます。
 1611年ごろ、オランダ商船が初来着し、宣教師を介せずに貿易を行う方針を伝えてきます。徳川幕府はこれに好意を示してゆきまあす。
 1611年、ポルトガル船が日本の港の測量を始めました。アダム・スミスは、スペイン・ポルトガル連合が日本に攻めて来るためだと家康に進言します。事実、スペイン・ポルトガルはそのような手順をえて軍事力により外国を支配していました。西欧のカトリック対プロテスタント対立が日本内部で起こったのです。
 これに対し、スペイン・ポルトガル連合は日本をカトリック系による反徳川陣営と仏教徒の徳川陣営の二つに分裂させ、内戦を起こさせようと画策します。事実、秀吉の遺児、秀頼は大のキリシタンびいきで、大阪城には宣教師がいたと言われています。
 1614年、危険を察知した家康は、全国に「キリシタン禁止令」と「宣教師の国外追放令」を発布します。これにより、全国にいた宣教師や修道士は長崎に集められ、何隻もの船により、マニラやマカオに追放されます。日本にとどまった宣教師は、ほとんどすべて捕えられ、殉教します。以来、踏み絵をはじめ、キリスト教への弾圧はますます強くなり、潜伏キリシタンの摘発、拷問、死刑が行われてゆきます。
 1634年、徳川幕府は日本鎖国令を発布し、スペインとの交流を断絶します。同年、長崎に出島が作られ、オランダとの貿易が続けられてゆきます。なお、朝鮮や中国など、キリスト教と無関係な国とはそのまま貿易が継続されていましたから、鎖国はキリスト教徒の断絶を意味していました。
 そのような中、1637年、天草・島原の乱が勃発しました。
 天草はバテレン追放令が発布された 1587年当時、人口3万人中、2万3千人がキリシタンで60人余りの神父と30の教会があるキリシタンの島でもありました。その後、数々のバテレン追放令により、その迫害は目を覆うものがありました。その上、年貢率は高く、取り立ても容赦なく惨いものでした。これに飢餓が続き追い打ちをかけます。
 1639年10月、たまりかねた人々は反乱ののろしを上げました。天草一揆のはじまりです。そして、富岡城・島原へと戦火は広がります。
 富岡城は政府側の拠点として一揆軍から総攻撃を受けましたが、必死の守りで落城を免れます。一揆衆は海を渡り旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に立て籠ります。その時のリーダーは良く知られた天草四朗で、若干16歳でした。
 カリスマ性があり、若くして祭り上げられたとも言われていますが、十字架を掲げ、戦闘を指揮しました。原城に立て籠った一揆衆は3万7千人とも言われています。
 キリシタンたちは、神の使いとして生まれた天草四朗を助けるため、必ずポルトガルの軍勢が助けに来ると信じていました。それを知った政府軍は一計を案じ、オランダの軍艦に頼み、5本の大砲で城を攻めさせます。
 籠城していたキリシタンたちは絶望し、戦意を喪失したと言われています。 籠城して3ヶ月余り、食糧、水がなくなり、城の内部は悲惨を極めました。この戦いで、内部通報者の一人を除き、すべてが殺されています。政府軍の軍勢は12万もおり、海と陸から原城を取り囲んでいました。勝敗は明らかでした。
 この時、幕府連合軍で鉄砲奉行をしていたのが鈴木重成公です。乱の後、重成公は島原と天草の乱後処理と、両地の復興計画にあたることになります。
 乱の後、労働力は激減し、田畑は荒れ、人々の心は荒みきっていました。
 広がる美しい海や山、そして困り切っている人々の姿を目にしたとき、重成公の復興策への強い決意が芽生えたと言われています。
 重成公は徳川家光に次のように建言したと言われます。
 「天草は孤島でありしかもその大部分は山地であり耕地が少なく、生産力が低いにもかかわらず、税だけは他所並みというのが実態であります。あの者たちが一揆に及んだのは何もキリシタンの教えを信じたためばかりではありません。実にやむを得ぬ事情があったものと思われます。」
 天草では一揆衆により、多くに寺社が破壊されていました。重成公は幕府からの資金を投入し、神社を復旧し、寺院を立てました。また、重成公たちの必死の願いにより、天草の石高は2万1千石と半減され、年貢も半分になり、住民の生活は向上してゆきました。
 天草には鈴木神社が作られています。
 天草半島を一周してみました。たくさんの島と湾があり、海はなぎ、豊かな漁場になっています。


 島の中にはいくつもの教会が建てられています。下の写真は埼津カトリック教会と大江天主堂です。
 天草のキリシタンは、徳川幕府の禁教時代にも「かくれキリシタン」として、ひそかに信仰を続けてきましたが、明治に入り信仰の自由が保障されるようになると、再び布教が行われて来ました。
 



富岡城
 
 一揆軍から攻撃を受けましたが、必死の守りにより、落城を免れています。
 乱の後、大規模な修築および拡張がされ、現在、その当時の富岡城が復元されていました。城の中には、熊本県富岡ビジターセンターが作られ、キリシタン一揆の様子なども再現されていました。

 家内が一句、作りました。 「天草の墓にロザリオ聖五月」



 小さい孫たちはお城の見学よりは海辺で遊ぶ方が楽しいようです。




天草祇園橋
 
 国指定重要文化財に指定されています。1832年、地元の石屋によって建設されました。
 この建設の約200年前、このでは一揆衆と政府軍との戦いにより、死者でこの川が塞がったと言われています。
 

     
     

9日目 天草をから熊本の田原坂を通り福岡どんたく祭りへ

 子供たちは仕事の関係で明日の朝早く東京へ戻ります。そのため、ホテルを博多に取ったのですが、予約に大変苦労しました。後で知ったのですが、今日は博多どんたくの日でした。
 どんたく祭りは午後2時からとのこと、時間に余裕があったので、日本最大の内戦と言われる西南の役の跡地、田原坂を通ってみました。
 たまたま、資料館の駐車所は別の目的のお祭りに使われ、車を停めることが出来ず、資料館の見学は中止し、細い坂道の田原坂をドライブして、博多に向かいました。

家内が一句作りました。「青葉闇時代隔てし田原坂」



博多どんたく祭り 

 午後2時の少し前、ホテルに車を停め、歩いてどんたく祭りに行ってみました。パレードは博多駅から2kmほど離れた天神通りで行われます。もうすごい人混みで道路を覗けないほどでしたが、開催直前、今まで通行可能であった道路が閉鎖され、幸い道路の真ん中の最前列に座ることが出来ました。幸運でした。
 しばらく見ていると、どうも以前見た東北の祭りとは全く違っているようです。そのうち、中学生、小学生、幼稚園生などのパレードが続いてきました。また、地元のおばさんたちのパレードがやってきました。
 20分も見たら飽きてしまったので、見学をやめ博多駅近くのホテルまで歩いてゆくことにしました。
 途中、いろいろなところで踊りなどの催しが行われていました。市内の10ヶ所以上で行われているそうです。
 どんたく祭りは、技を争うような祭りではなくて、町全体の人がお祭りに参加して楽しむ祭りのようです。
 


 これからパレードに出発する人たちが集まっていました。
 何カ所のところで踊りなどが披露されていました。
 

      

10日目 山口県萩市を観光後、秋芳洞見学
  
 萩市の見学は初めてです。
 子供たちは朝早い飛行機で羽田に向かいました。
 私たちは今日の観光地、萩に向かいます。その後秋吉台の鍾乳洞を見学しました。。



門司 メカリパーキング

 九州側の最後のパーキングで一休みです。九州に来るとき停まった壇ノ浦パーキングが橋の向こうに見えます。船がたくさん通るのでどのような船かと望遠で見たところ、釣り船でした。
 
 


道の駅 萩往還
 
 萩市に到着する少し前に、道の駅、萩往還があったので立ち寄ってみました。
 この道の駅は、まさに、明治維新記念館でした。
 吉田松陰記念館も併設されていました。無料です。市内の案内図なども無料でおいてありました。アメリカのビジターセンター並でした。
 
 


歴史の道 萩往還

 名門、毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍に加わったものの、東軍との関係を保ちながら日和見的に徹し、戦いにはほとんど加わりませんでしたが、東軍の大将家康は、毛利氏を長門国の城下町である萩の城主に左遷しました。
 萩は山陰の町で、江戸へ出るには現在の防府市に出る必要がありました。そのため、萩と防府をほぼ直線で結ぶ全長約53kmの街道が整備されました。この道は参勤交代道や山陽道への連絡道としても使われ、また、日本海側の萩と瀬戸内側の商港であった中関港とを結ぶ役割もしていました。
 明治維新の時代、多くの若者たちが夢を乗せて、この道を通り、大阪や江戸と行き来することになります。
 現在は街道のほとんどが国道などとして整備されていますが、山道など一部のところは歴史的遺構として残されており、国の史跡に指定されています。
 道の駅から歩いて行けるというので、散歩を兼ね萩往還の一部を歩いてみました。殿様が駕籠に乗りこのような狭い険しい道を通っていたと思うと、歴史の面白さが一層増してきます。
 



萩市 歴史地区 

 萩の歴史地区は、川で囲まれた中洲の中に位置しています。とりあえず、車を駐車場に入れ、街中を歩いてみました。塀で囲まれた家屋のほとんどは一般に民家で、人が住み普通の生活をしていますが、一部の民家は土産屋などを開いていました。
 また、ホテルや、歴史的旧毛利家別邸表門などもありました。



旧久保田家住宅(萩指定有形文化財)

 この住宅は、参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート沿いに位置し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。
 久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。
 以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業していました。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。


菊屋家住宅(重要文化財)

 菊屋家は、毛利輝元が萩城築城の際に萩に入り、有力町人として町造りに尽力しまし、萩藩のご用達を務めた豪商となりました。この住宅は「菊屋」の住宅ですが、その屋敷は幕府巡見使が来た時は本陣にあてられました。
 菊屋家住宅は江戸初期の建築で約400年の歴史があり、現存する商家としては最古の部類に属しおり、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されています。
 内部には菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍などが展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。
 古びた柱時計は、伊藤博文が初洋行の際のアメリカ土産だそうです。130年以上経っている今も週1〜2回ゼンマイを巻くだけで正確に時を刻むそうです。



 町を歩いていると、往時をしのばせるいろいろな施設に出会います。



松下村塾

 幕末に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾が保存されています。
 この塾は木造瓦ぶきの小さな平屋建てで八畳一間と後で増築した十畳半の平屋から成り立っています。
 塾は数年間しか使われませんでしたが、塾生は50名に達し、高杉晋作などもその一員でした。
 また、それらの末弟子には、伊藤博文、山形有朋、品川弥二郎などがいました。
 1854年、24歳の時、吉田松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗し、牢獄に入れられていましたが、その後、萩の野山獄に移されました。
 1855年、牢獄から解放され、実家お預けとなり、3畳半一室に幽閉されていました。
 ここで父兄や近親者が松陰の講義を聴き、やがて入門者が増えてきて私塾の形態が出来るようになりました。
 松陰は安政5年(1858年)、老中間部詮勝の要撃を企てたため、野山獄に再び幽閉されます。その後、江戸の牢獄に移されますが、大老・井伊直弼による安政の大獄で 1860年、若干30歳で斬首刑に処されています。
 



明治維新胎動の地

 この一角には松陰塾をはじめたくさんの明治維新の士の館や神社が残されています。
 松陰神社と松門神社が並んでいました。
 


伊藤博文旧宅、別邸

 伊藤博文は初代内閣総理大臣として有名ですが、5代、7代、10代の総理大臣にもなっています。この邸宅は資料館になっており、明治維新に活躍した人たちの経歴なども、壁に貼られていました。
 



秋吉鍾乳洞

 今夜の宿は秋吉台にあり、宿に入る前に鍾乳洞の見学をしました。
 駐車場から鍾乳洞の入り口までは1km以上も歩かされます。
 


 鍾乳洞の中には川が流れており、その水量もかなり多そうです。
 
 
 
 この鍾乳洞は秋吉台の地下 100〜200mの所にあり、約1kmの観光道路を有しています。探検家により、現在、総延長 8,500mまで確認されています。
 日本最大クラスですが、長さに関しては第3位にランクされています。1位は岩手県の安家洞でその長さは 23.7kmもあります。現在、700mのところまで入ることが出来るそうです。
 秋芳洞でまず驚くのがその広さです。身を屈めて通るようなところは全くありません。
 また、水量の多さにも驚きます。そのためか、環境保護にはさほど注意を払う必要がなく、照明も比較的明るくなっていました。
 内部にはトルコのパムッカレやアメリカのイエローストーンで見たと同じような石灰棚を見ることが出来ました。
 
 

 今日はたくさん歩いたので、結構疲れました。万歩計を見たら 2万7千歩になっていました。
 ホテルはこの鍾乳洞の真上にありました。

      

11日目 秋芳台観光後帝釈峡を散策し姫路へ

 今日は秋吉台見学後、中国高速道路を通り、途中帝釈峡を観光し、ホテルを予約してある姫路へ向かいました。


秋吉台
 日本最大のカルスト台地で、台地が水に溶解しやすい石灰岩で構成されています。
 北東方向に約16km、北西方向に約6kmの広さを有しています。台地面の標高は180〜420mです。この台地の下には約400個もの鍾乳洞が発見されています。
 同じような地形に、クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園トルコのパムッカレアメリカのイエローストーン国立公園などが知られています。


帝釈峡
 中国山地に位置する長さ18kmの峡谷で国の名勝に指定されています。
 神龍橋まで少し歩いてみました。
 



雄橋(おんばし)

 車を上流に移動し、そこから下流に20分ほど歩くと、雄橋が現れます。
 石灰岩でできたアーチ状の橋で、全長90m、幅18m、厚さ24m、高さ40mもあります。アメリカのアーチーズ国立公園並みの立派さでした。



姫路城

 夕食前に姫路城に行ってみました。さすが日本一のお城です。現在は修理中ですが、内部には入れるそうです。
 

      

12日目 姫路から第二東名を通り、一路自宅へ

 朝食後、第二東名を通り、どこにもよらず自宅に戻りました。到着は午後3時ごろでした。
 出来たばかりの第二東名の駐車場はほぼどこも混雑の表示が出ていました。
 今回のドライブでの走行距離は約 4,500kmでした。

 
 



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