ベトナム ダナンとホーチミン6日間

2014年2月5日~10日

>>Look JTB 現地ツアー


 今回の旅は、成田からホーチミンに行き、そこで国内線に乗り換え、ダナンに3泊して3つの世界遺産を観光し、再びホーチミンに戻り1泊し、ベトナム戦争の遺跡クチ地下トンネルやホーチミン市内の観光でした。
 
 飛行機のスケジュールは
 2月5日 成田 09時30分出発 VN301
  ホーチミン 14時20分到着
  ホーチミン 18時25分発 VN1326
  ダナン 19時40着
 2月8日 ダナン 14時20分発 VN1317
  ホーチミン 15時35分着
 2月10日 ホーチミン 0時30分発 VN300
 成田 07時45分着
でした。


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 再生速度は右下の三つの星を押すと早くしたり遅くしたりすることが出来ます。


観光内容  宿泊地
 1日目  2月5日  成田からダナンまで  ダナン
 2日目  2月6日  ミーソン遺跡とホイアン観光  ダナン
 3日目  2月7日  古都フエ観光  ダナン
 4日目  2月8日  ダナンからホーチミンへ移動  ホーチミン
 5日目  2月9日  クチの地下トンネル観光など  機内
 6日目  2月10日  帰国

     

1日目 ホーチミン経由ダナンへ

 成田からホーチミンまで約6時間30分でした。ダナンに行くため、ホーチミンの国際航空から国内線に乗り換えです。国際線と国内線は約200mほど離れています。
 乗り換えのための待ち時間は約4時間もありました。
 時間がたっぷりあったので、乗り換えに問題はありませんでした。 


 ダナンの空港にはLook JTB の係員が迎えに来ていて、今夜のホテルインターコンチネンタルまで送ってくれました。空港からホテルまでは約30分でした。空港から同行した日本人は6名でした。案内の係員は日本語を話す現地の人でした。



17度線非武装地帯

 ダナンはベトナムを南北に分けた17度線休戦ラインの南に位置しています。
 従って、戦争の被害の特にひどい所でした。
 休戦ラインは17度よりわずか南のベンハイ川を跨ぎ、幅約4㎞軍事活動が出来ない地帯で、第1次インドシナ戦争の終結時に作られました。
 このラインは、北ベトナムと南ベトナムが分裂した1954年から、ベトナム戦争が終結した1975年まで定められていました。

 
 ベトナムの通貨はドンで、すべて紙幣で作られ、コインはありません。
 1円は約200ドンで、左の10万ドンは500円に相当します。換算は切が良いので割と簡単でした。
 最高額の紙幣は50万ドンで2,500円に相当し、最少額の紙幣は100ドンで0.5円に相当します。
 約5年前のベトナム旅行でもほぼ同じ換算レートでした。


     

2日目 ミーソン遺跡とホイアン観光

 ベトナム戦争時、アメリカ軍がダナンに大規模な軍事施設を建設し、北ベトナムへの前線基地になっていました。従って、北ベトナムからの反撃も激しく、戦争の悲劇が最もひどかった地域です。
 当時の様子は、1993年制作のオリバーストーン監督 映画「天と地」に詳しく描かれています。
 北のベトナム解放軍(通称ベトコン)と南の政府軍の間で、民衆が翻弄され、密告が繰り返され、拷問を受け、殺され、誰が味方で誰が敵なのか分からなくなったアメリカ軍の姿が描かれています。素晴らしい作品です。
 現在、ベトナムでは世界文化遺産に5件登録されていますが、そのうちの3件がダナン周辺に位置しています。今回はそれら3つの世界遺産、ミーソン遺跡、ホイアン、古都フエを観光しました。
 いずれもベトナム戦争により大きな被害を受けていますが、ホイアンは幸い、あまり被害を受けませんでした。



インターコンチネンタルホテル

 3泊したホテルは完全なリゾートホテルで、市の中心から車で20分ぐらいの所にあります。
 ゆっくりと過ごすには適していますが、交通の便が悪く、その上、レストランで食事をし、ラーメン(ベトナムの麺)と現地のビールを2杯頼んだところ、量が少ないにも拘らず、二人で6千円もしました。お腹が空いていれば3杯は食べられるぐらいの量にも拘らずです。
 朝食代金は含まれていましたが、昼食、夕食は馬鹿らしくて食べる気にもなりませんでした。
 さりとて市内まで行くにはリムジンを頼まねばならず、片道60$もします。



 部屋からの眺めは最高です。季節的にも最高で、朝夕は涼しく、気持ちの良い気候です。


 レストランへ行くにも、レセプションに行くにも数分かかります。ただ、電話をすればすぐに迎えに来てくれます。



レセプション

 中国風の作りでした。ダナンは華僑の影響を強く受けているようです。



レストラン

 朝は、海を眺めながら、バイキング料理を楽しめます。かなり豪華な料理でした。



ミーソン遺跡観光

 午前中はミーソン遺跡の観光です。今日は、現地の日本語を話すガイドさんと運転手が付いた家内と二人だけの観光です。
 8時半にレセプションに迎えに来てくれました。このツアーには昼食と夕食が付いていました。
 ミーソン遺跡までダナンから車で約2時間かかりました。ミーソン遺跡はホイアンの南西約40㎞の所に位置しています。



大理石

 ダナン近郊にはたくさんの大理石の山があり、ミーソンに行く途中、ちょっと寄ってみました。
 道路に沿ってたくさんのお店屋さんが並んでいます。なにぶん、重いので、買って持ち帰るわけにも行きません。



ミーソン遺跡(世界遺産)

 インドネシアから北上してきたチャバ民族は、ベトナム中部にチャンパ王国を築き2世紀末から17世紀まで栄えました。彼らはベトナム中央部に幅広く生活圏を築き、幾つもの遺跡が残されていますが、このミーソン遺跡はそれらの中でも最大の規模を有しています。
 チャンパ王国は大国インドとの貿易で栄えましたが、その影響もあり、ヒンドゥー教を信仰していました。
 ミーソン遺跡は四方を山に囲まれた山の上の静かな所にあり、チャンパ王国はここを聖地と崇め、歴代の王たちは7世紀から13世紀にかけて幾つもの宗教施設や70を超えるお祈りのための塔を築き上げてきました。
 このように長い年月の間、同じところに祠堂を作り続けた例は世界的にも珍しいそうです。
 チャンパ王国はベトナム国に属してはいませんでした。ベトナムは北部ベトナムと中部ベトナムまでを支配していました。
 18世紀に入り、ベトナム国はこのチャンパ王国を事実上滅ぼし、その後、カンボジアが支配していたメコンデルタ地帯まで勢力を拡大してゆき、今のベトナムを作り出しています。



 遺跡の近くまで車で行けますが、数100mは歩く必要がありました。
 博物館が作られていて、遺跡内の仏像などはこの中に保管されているそうです。
 見学はありませんでした。


 チャンパ王国を作り上げたチャム族は陽気で豪快、音楽と踊りを好む人たちであったそうです。
 そのチャンパ王国の末裔、チャム族に伝わる音楽で、昔からの踊りが披露されました。
 ヒンドゥー教の踊りはおへそ出して踊るのが特徴です。


 ベトコンの基地になったこの地にはたくさんの地雷が埋められており、終戦後、再調査のためには、それらの地雷の撤去が必須でした。その地雷撤去作業では9人が死亡、11人が負傷したそうです。


 かってここには70を超える祈りのための塔が建てられていました。壁面はきれいな彫刻で飾られています。


 70もあった塔の一つに入ると、中はレンガを配置して巧みに作られた空間があります。レンガ積みのためあまり広い空間は作れませんでしたが、王たちはこの密室で神と対話し、国の繁栄を願ったと考えられています。


 チャンパ民族はヒンドゥー教、特にシヴァ信仰に強く、祠堂の中に女性を象徴するヨニ、その上に男性を象徴するリンガが幾つも安置されています。
 このような儀式のための置物は、ヒンドゥー教徒の多いインドやネパールでも見たことがあります。



聖なる牛

 遺跡の中には、この聖地を守る聖なる牛が横たわっています。
 しかし、ベトナム戦争により銃弾を受け顔の部分が破壊されてしまっています。



B52爆弾攻撃

 ベトナム戦争で解放軍はここを基地局として使用していました。そのため、ミーソンは空爆の標的となってしまいました。
 1968年8月、そびえ立つ多くの塔が爆弾の直撃を受けて破壊されました。
 これはB52による爆撃で作られた穴です。以前はここにミーソンでは一番高い28mの塔がそびえていました。


 さらに奥に行くと、修復中のレンガ建造物があります。これらは鉄材などのより保護されていますが、修復というよりは、これ以上破壊が進まないようにしているそうです。



アリの巣

 高い木の枝に鳥の巣のようなものが作られていました。ガイドさんの話によると、蟻の巣だそうです。


 観光後、次の観光地ホイアンに向かいました。ホイアンはミーソン遺跡から車で約1時間半ぐらいの距離にあります。途中、昼食を入れて、約2時間強かかりました。


 昼食は川の中に作られた船の中のレストランです。ベトナム料理が出てきました。
 観光客向けに作られたレストランのようです。
 ベトナムのビールは RARUE で、けっこう味わえます。
 ほとんどのレストランでドルが使用できました。現地通貨ドンしか表示されて居なくても、一般にドルが使用できました。 



古都ホイアン(世界遺産)

 ホイアンはベトナム中部の南シナ海に張り出した海上交通の要所に位置しており、トゥーボン川を6㎞ほど遡った所にあります。古くから海や山の豊かな産物に恵まれ、また、海のシルクロードとしての重要な中継基地でした。
 チャンパ王国時代には中国やインド、アラブを結ぶ貿易都市として栄え、その後、15~19世紀にかけてはアジアとヨーロッパの交易の中心地として繁栄しました。
 日本との交易も盛んで、16~17世紀頃にはアユタヤ、マニラと並んでここにも日本人町が作られました。最盛期には1000人以上の日本人が住んでいたと言われています。

 

 ホイアンは大航海時代の、その古き良き時代の様子を今に残す唯一の町として、その町並みが1999年世界遺産に登録されました。
 旧市街は歩行者専用道路になっています。


 道路の中央に車進入禁止の立て看板が置かれています。ガイドさんが切符を購入しました。この切符は博物館など何カ所の入場券になります。


 川沿いの900mの通りに400棟の木造家屋が並んでいます。この通りに立ち並ぶ家はかつての商家です。KIMONOの看板もありました。
 これらの商家は、その昔、川を昇ってやってくる外国船との取引に当たりました。大航海時代、ポルトガルやオランダ、タイ、中国、日本など、遠い異国の商人たちがこの町に溢れていました。
 ホイアンの港が大きく発展したのは17世紀のこと、時、あたかも大航海時代の真っただ中、この町にっもはるかオランダやポルトガルから商人が現れました。彼らが求めたのはホイヤン特産の生糸や砂糖と、御香として珍重されたキャラなどの香木でした。外国との貿易を積極的に進めたこの町は異国の商人で溢れました。
 今、この旧市街には2万人ほどの商人が暮らしています。殆んどの人たちはかって世界中の人たちと商売をしてきた人たちの末裔だそうです。


 シクロと言われる乗り物です。結構狭そうです。



来遠橋(通称、日本橋)

 この橋の片側には300mも続く日本人町がありました。
 家康は当初朱印船貿易を認め、最盛期には1000名以上もの日本人が暮らしており、治外法権も認められていました。しかしその繁栄もわずかな期間にとどまりました。朱印船貿易を認めてからわずか30年後の1633年、家康は鎖国令を発布します。それにより、日本人は祖国に見捨てられ、多くの日本人はどうすることも出来ずこの地に留まりましたが、生活の糧を失った日本人はほとんどが死に追いやられたそうです。そのため、当時の様子はほとんど残っておりません。
 18世紀に入り、この橋が改修されたとき、来遠橋と名付けられました。遠くからやって来た友人たちを迎えた橋という意味で、橋の由来や、日本人が作ったことは、橋のたもとに作られた石碑に刻まれています。
 橋の中央に仏壇が作られています。


 橋の両端には橋の両側に犬とサルの像が飾られていました。
 屋根のあるこの橋は、日本人によって戌(いぬ)年に作り始められ作られ、申(さる)年完成しています。すなわち3年かかって作られました。


 ホイアンは川と海によって世界と結ばれていたのですが、ホイヤンの歴史は水との戦いの歴史でもありました。新月や満月前後の大潮には川の水位が高くなり、川に面した通りには水に浸されます。大潮だけではありません。雨季には毎年のように洪水に見舞われます。毎年のように繰り返される水害で、その時は家の中を移動するにもボートに頼るほどです。
 洪水になると一階の物をすべて2階に上げるのです。商家の二階に上がると床を外せるようになっていました。洪水が来ると、一階の商品をすべて二階に引き上げるのだそうです。


 ホイアンの商家には家の扉がありません。その代わり、夜になると窓には木のシャッターが並べられ、朝になるとそれが取り外されます。この木のシャッターは300年前に考案されたそうです。
 扉を無くし、僅か4mの間口でもたくさんの商品を並べることが出来るように工夫されています。



町の中心部に建つ貿易陶磁器博物館

 館内には伊万里焼が展示されています。17世紀後半のホイアンで広く使われていたのは日本製の磁器でした。最近の調査で街の至る所から伊万里焼が発見されています。 
 江戸時代、日本の商人たちは朱印船に乗り東南アジアへ交易に向かいました。マニラ、マカオ、バンコク、マラッカなど数十カ所と交易を行っていましたが、日本の船が最も多く訪れたのは交跡(コウチ)すなわち、ホイアンでした。ホイアンにとっても日本との交易は非常に盛んでした。
 ホイアンでは銅が採れなかったため、日本のコインがお金として使用されていました。日本の銅銭がたくさん輸入されていたのです。当時の通貨の単位は銅でした。これが今まで伝わり、ベトナムの通貨のドン(DONG)の起源となりました。


 ホイアンの古い商家には華僑の姿が多く見られます。その祖先は中国からやって来た商家でした。
 旧市街にはたくさんのお寺が作られ、漢字が使われています。
 お寺には螺旋状の線香がつるされています。家族の名前を書き入れた名札がその中に吊るされています。
 線香は2か月間も燃え続け、家族の安全をお守りします。このお線香は約50$だそうです。


 旧市街の家には扉がなく、家の奥まで見ることが出来ます。家のいちばん奥は一般に台所になっています。写真を拡大すると、家の奥で洗濯をしている女性が見えます。
 ホイアンの商家は細長く建てられ、その平均的な奥行きは30mだそうです。細長くウナギの寝床のようになった理由は、トゥーボン川の川底が上流からの土砂により、年々浅くなってしまい、川から離れてしまったので、それを補うよう建て増して行ったら、だんだんと細長くなってしまったのだそうです。
 一方、奥まで見えるようにしてあるのは、ベトナム戦争の名残だそうです。
 ホイアンは北ベトナムと南ベトナムの境界にあり、当初、南ベトナムに属していました。そのため、アメリカ兵もたくさん暮らしていました。そこに、北からベトコンが侵入して来て、民衆にベトナム統一の重要性を説き、北に協力するよう求めました。また、政府軍の情報を聞き出そうとしました。
 そのため、ホイアンの住民の中には情報を売りお金を貰う人もあらわれました。しかし、その取締りは相当激しく、拷問もしばしば行われるようになり、疑われないように、一日中、扉を開けておく風習が根付いたそうです。
 いずれにせよ、今まで仲良く過ごしていた住民たちは、北に付くか、南に付くかの判断にせまられ、町は二つに分断されて行きました。
 戦争が北ベトナムの勝利で終わった後、南側に付いた住民には厳しい制裁がなされました。年金の支給は止められ、土地や家屋が没収されました。そして隣人同士の間にもまた悲しい憎しみが生まれました。南に付いた住民の一部にはアメリカへと亡命した人もいました。
 今ここに住む住民はベトナム戦争当時の様子を話そうとはしないようです。
 当時の様子はオリバーストーン監督の映画、「天と地」にも描かれたいます。
 ベトナム戦争が終わってからかなりたった後で、南に協力した住民にも、取り上げられていた家が戻されました。しかし、その家はかなり荒れ果て、修復するのに大変な努力が必要でした。



トゥーボン川クルーズ

 旧市街をほぼ一巡した後、まだ、帰るには時間があるので、街を自由散策しても良いし、クルーズ船があるので乗ってみるのも良い経験になるとガイドさんに言われました。
 一人10$で1時間のクルーズとのこと、面白そうなので乗ることにしました。
 乗客が私たち二人とガイドさんだけの贅沢なクルーズになりました。ベトナムなのでしょうか、かなり割安です。
 


 船の流れに身を任せて周囲を眺めていると、ふと、芭蕉の奥の細道、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす」という言葉が自然に浮かんできました。芭蕉の気持ちに浸り、快い気分を味わいました。
 船は下流に向かい、約30分後Uターンして来ました。途中、投げ網をしている船があり、近づいてくれました。大変カラフルな網でした。


 再び船はUターンして戻りました。5年前のベトナム旅行でメコン川クルーズをしたのを思い出しました。



 再び島にわたり、日本人橋を渡り、駐車場に向かいました。




絹製品製造展示販売所
 
 かって、ホイアンは生糸の生産と貿易で栄えて来ました。しかし、ベトナム戦争でそれら生産設備や機織りの設備はほとんど破壊され、それ以降、生糸は生産されなくなってしまいました。
 旧市街の駐車場近くに観光客用の絹製品製造販売所があり、店に入ると、日本語を話す女性がずっと案内してくれました。
 家内は何やら小物を買ったようです。



ダナン大聖堂

 ホイヤンからダナンに戻り、夕食は市内でベトナム料理です。その前に、ホンヤン大聖堂を覗いてみました。ちょうどミサが行われていました。

 

 ガイドさんに市内の散策をお願いし、少し歩いてみました。ツアーには入っていないサービスです。


 ガイドさんにダナンの都市の様子を見たいと言ったら、良いところがあると言って連れて行ってくれました。ガイドさんの良く知っているホテルで、その最上階に登りました。町全体を見ることが出来ました。
 遠くにダナン名物、観音様が見えます。台風の被害を避ける様に作られたそうです。


 その後、市内のレストランでベトナム料理を味わいました。そのレストランで午後7時から、ベトナムの踊りのショーが予定されていたのですが、疲れたので観劇を中止し、早めにホテルに戻りました。
 ホテルの屋上から見た黄色い橋の欄干は、いろいろな色に変るようです。


 豪華な部屋なのでカメラに収めました。
 ダナンは大理石の産地なのでお風呂もトイレも大理石で出来ていました。しかし、便器に座るととても冷たく、また、持ち上げるとかなり重く便利とは思いませんでした。
 贅沢には苦労も必要なようです。 


     

3日目 古都フエ観光 

 今日も昨日と同じガイドさんとドライバーさんで、たまたま観光は二人だけの贅沢な観光になりました。ツアーには昼食と夕食も付いています。
 フエまでは車で3時間もかかるので、朝、8時の出発です。昨日と同じレストランの海が見える最高の場所で朝食です。


 途中、トイレ休憩に立ち寄りました。ベトナムのトイレは一般にきれいで無料で、かつ、観光地にはたくさん作られており、水洗ウオッシャーはありませんが、見つけるのに不便を感じたことはありませんでした。
 また、ちょっとしたレストランや休憩所には、無料のWiFiがあり、その点は日本よりも進んでいます。
 海外から日本に来た観光客が日本の WiFi 環境の悪さにクレームを付けるのもうなづけます。



フエ観光(フエの建築群が世界遺産)

 フエは阮朝(グエン朝)の都です。阮映は1788年、大砲と海運力で中部ベトナムを奪回し、1802年、フエに都を置きました。グエン朝はその後勢力を拡大し、南部のメコンデルタ地帯も征服しています。しかし、フエ征服の時、フランスの志願兵と宣教師の助力を仰いだため、フランスの進出を許すようになりました。
 次の皇帝明命帝はカトリックの布教や西欧諸国との断絶の道を選んだため、1858年、フランスはダナンに大砲を打ち込み開国を迫り、1862年、フランスとの協定を結ばせ、メコンデルタ地帯の一部の割譲とカトリックの布教を認めさせました。
 以来、フランスはベトナム全土の植民地化を進め、1882年にはハノイを占領し、フエ政府は形骸化してゆきました。
 今日は一日かけて、フエの主な観光地、王宮と、カイディン帝廟、トゥトゥック帝廟、ティエンムー寺の4か所を回ります。
 ベトナム最後の王朝、グエン朝が都をフエに定めたのは1802年のことでした。
 1945年、第二次世界大戦が終わり、日本がベトナム支配から手を引くと同時にホーチミンがベトナム国成立を宣言し、約150年続いた王朝は滅びました。



カイディン帝廟

 歴代の国王は生前から思い思いの墓を作っていました。この霊廟は最後の国王バオダイ帝の父親カイディン帝のものです。1920年から墓の建設をはじめ、完了したのは死後6年を経過した1931年でした。
 象や馬が霊廟を守っています。
 この豪華な帝廟の建設のため、人民の暮らしは苦しく、また、フランス政府の激しい搾取に対し、ベトナム民衆の間で、独立への気運はかなり大きくなって行きました。


 霊廟は全体的にフランス風に作られています。この時代、フエは、すでにフランスに支配されていました。
 立体的なモザイクの陶器やガラスの破片が霊廟を埋め尽くしています。フランスワインの瓶の破片もたくさん使用されています。
 カイディン帝はこの自分の像の下に眠っています。
 一般には、お墓があっても実際にそこには埋葬されていないそうです。このように実際にお骨があるのは珍しい例だそうです。



トゥドゥック帝廟

 1864年から1867年にかけて造られた帝廟で、カイディン帝廟よりは質素に作られています。
 グエン朝の第4代皇帝トゥドゥック帝は質素を尊び、民衆からは人気があったそうです。


 帝廟の入り口には門があります。


 門を入ると広々とした風景が現れます。この霊廟は、皇帝の別荘としても使用されていました。
 奥には石垣で囲まれた皇帝のお墓がありますが、他の多くの皇帝と同様、トゥドゥック帝はここには埋葬されておらず、実際の埋葬場所は不明だそうです。



 別の階段を登ると、皇帝を祀ったお寺があります。別荘としても使用されていました。



皇帝料理

 昼食はフエの名物、皇帝料理でした。


 ウエートレスが料理を持って来た時、私たちのカメラを見つけると写真を撮る様にと言ってくれました。確かに美しい料理で味も素敵でした。


 王宮は旧市街の中にあります。
 グエン朝は1802年、ここに王朝を築きましたが、1945年、13世のバオダイ帝はこの場所から全土に向けてグエン王朝の終焉を伝えました。
 バオダイ帝は1925年に即位しました。その頃はフエもフランス領となっており、バオダイ帝もフランスで教育を受けています。
 バオダイ帝のお墓はベトナムにはありません。パリのエッフェル塔の近くのお墓だそうです。



王宮

 この王宮は北京の紫禁城を手本にして作られたそうです。


フラッグタワー

 1809年のザーロン帝の時代に作られた三層の台座を持つ旗塔です。台座の高さは17.4mで、塔の頂上まで入れると29.5mにもなり、遠くからも見ることが出来ます。建設当初は木製でしたが、戦争や台風で破壊され、現在のタワーは1969年、鉄筋コンクリートで作られています。
 1968年のテト攻撃の時には24日にわたり、解放軍の旗がかかげられていました。
 この戦いはベトナム戦争で最も激しい戦いの一つであり、米兵は古城の壁を背に戦いました。この戦いで破壊されたザーロン帝廟は、未だ瓦礫のままです。



前庭

 午門(ごもん、正門)の前には大きな池がありました。



王宮門(午門、ごもん)、太和殿

 鳳凰が翼を広げ、舞い降りた姿を映した午門(正門)が来訪者を迎えてくれます。
 大きくて美しい外観です。王宮は中国の紫禁城を模して作られ、王宮の四方には門が作られています。
 門の向うに見える赤い屋根の建物が太和殿ですが、中国の紫禁城と比べると、その規模ははるかに小さくなっています。
 この建物はベトナム戦争中の1968年、完全に破壊され、現在、再建されているのはこの太和殿と歴代の皇帝の世廟など、まだ少なく、再建は今も続いています。
 太和殿の内部は写真禁止でした。



 王宮内には新しく博物館が作られていました。



 王宮の中には数えきれないほどにいろいろな施設があり、その一つに入ってみました。



 あまりに広いので電気自動車に乗って一回りしました。



ティエンム寺

 フエの町を横切り流れるフォーン川のほとりに造られています。
 グエン朝がフエに都を定める約200年前の1601年に創建されています。



 階段を上がると高さ21.24mの7層8角形の塔が作られています。
 各層には仏像が安置されているそうです。



 門を入ると釈迦を祀ったダイフン寺があります。中央には青銅の仏像が祀られています。



 何か、盆栽寺のようです。


 帰りもまた3時間かかりました。途中、追突事故があったようです。事故は毎日目にします。
 確かにこのような無茶な運転では、事故多発はやむを得ないようです。 


     

4日目 ダナンからホーチミンへ移動

 今日はダナン発14時20分のベトナム航空でホーチミンに向かいます。そのため、JTB の車が12時ちょうどに迎えに来ることになっています。
 せっかく素晴らしいリゾートホテルに泊まったので、午前中はこのホテルで過ごすことにして、海岸まで歩いて行ってみました。
 ちょうど今が最もよい季節にも拘らず、客はほとんどおりませんでした。皆さん、観光にどこかへ出かけたようです。
 砂浜からの帰りはエレベーターで戻りました。美人のエレベーターガールは、このホテルの開設当初から勤めているそうです。


 予定通り、12時にホテルを出発して、ホーチミンには15時35分に到着でした。



シェラトンホテル

 今夜のホテルはシェラトンです。ロビーでは民族音楽が奏でられえていました。



ホーチミン市散策

 ホテルを出てとりあえず、サイゴン川の方へ歩いてゆきました。たくさんのクルーズ船が停っていました。しばらく歩いていろいろな船を比較していたら、ちょうど待ち時間が少ない手頃の船があったので乗ることにしました。
 ベトナム戦争が終わり、サイゴン市はホーチミンと名前を変えましたが、サイゴン川をはじめ、サイゴン大聖堂、サイゴンオペラハウスなどサイゴンという名前を付けた施設はたくさんあるようです。


 まだ、出発まで時間があり、乗客はほとんど居ませんでしたが、すぐに料理が出てきました。
 でも、しばらくすると予約客がたくさん現れ、ほぼ満席になりました。
 船内ではショーが行われ、クルーズ時間は約1時間でした。
 サイゴン川からのホーチミン市の素晴らしい夜景を楽しむことが出来ました。



 少し散歩してみました。いろいろなネオンサインが作られ、町は遅くまで賑わっていました。


     

5日目 午前、クチの地下トンネル、
        午後、市内観光し、深夜便で日本へ



クチの地下トンネル観光

 ホーチミン市内の観光は5年前にほぼしているので、今回はベトナム戦争時、解放軍の基地であったクチを観光しました。
 解放軍の基地、クチの地下トンネルはホーチミン市の中心部から北西70㎞の所にあり、その手前のクチの町から30㎞離れたところにあります。



 朝、シェラトンホテルから見たホーチミン市の風景です。
 出発前、ホテルの中をいろいろ見て見ました。5階にはプールが作られていました。

 

 今日もなぜか、現地のガイドさんとドライバーと私たち二人だけのツアーでした。
 クチに行く道路の一部は、車専用になっており、その脇はバイクや自転車専用道路になっていました。
 今日は日曜日で、バイクに乗った人たちは通勤ではなく、地方の両親などに会いに行く車が多いのでそうです。2人や3人乗りは当たり前で、5人乗りも見ることがあります。
 法令では2人乗りまでで、子供を乗せた場合は3人まで認められていますが、一般に警察は大目に見て取り締まりはしないそうです。



 クチトンネルはゴム林の中に作られていました。
 戦争前はのどかな田園で、平和な暮らしが営まれていました。


 ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれていました。サイゴン川に囲まれたこの地域は鉄の三角地帯と呼ばれた難攻不落の場所でした。
 アメリカ軍は度重なる空襲と大量の枯葉剤を投下しましたが、解放勢力は地下にトンネルを掘りゲリラ戦を続けました。トンネルの総延長は250㎞にも及んだと言われています。
 トンネルの中には診療所まで作られていました。


 ゲートを入り、なかに進むと、約10分間のビデオ上映がありました。幾つもの上映小屋があり、この部屋は日本人専用(日本語のみ)になっていました。


 森林に入ると、地下トンネルのための空気穴が幾つも作られていました。アメリカ軍はこれを見つけると、穴から手榴弾、水、毒ガス、火炎放射などで攻めましたが、あまり効果はなかったと言われています。



 地下トンネルの入り口です。観光客が試していました。なかなか上手に演じていました。



 その他、たくさんの入り口があります。


 幾つもの罠が仕掛けられていました。中には針が取り付けられ、毒も塗られていました。仮にこの罠に落ちたら、精神錯乱必須でしょう。



 アメリカ軍の戦車や、当時のベトナム軍の様子の蝋人形が作られていました。



 当時の様子が屋外に展示されていました。


 戦うには十分な食事が必須です。お米を粉にして薄く広げた保存食が作られていました。
 奪い取ったタイヤを巧妙に加工し兵士のサンダルを作っていました。通称、ホーチミンサンダルと呼ばれていたそうです。



地下トンネルの体験

 体験ルートは実際にトンネルに入って歩けるようになっていました。ルートとして20m、30m、100mが用意されていました。
 中を進んでゆくと、懐中電灯を持った係員がルートを指示してくれました。結果的に20mのルートでしたが、それが精いっぱいでした。うさぎ跳びのような感じでしか歩けず、かなり疲れました。
 当時は当然電灯がありませんでした。真っ暗で複雑なトンネルを進むには相当の訓練が必要だったでしょう。
 実際には250㎞ものトンネルが作られていて、3階建の場所もあり、アメリカ軍はその詳細を知ることは出来ませんでした。



 食堂も作られていました。当時は今のような屋根は無かったそうです。
 木の根を煮た食べ物が用意されていました。当時は貴重な食材だったのでしょう。
 かなり粘り気のある食べ物でした。栄養満点の感じでした。


 ツアーは午前中で終了しホテルに12時ごろ戻りました。今夜の深夜便で成田に向かいますが、JTB の係員が我々を向いに来るのは午後9時半です。それまで、何らかの方法で時間を潰す必要があります。
 どこか良さそうなツアーがないか、ホテル内のコンセルジェで調べたのですが、もうほとんど行ったところばかりで、良さそうなツアーはありませんでした。
 とりあえず、チェックアウトの制限時間の午後2時まで部屋で時間をつぶし、チェックアウト後は荷物をフロントに預け、ホーチミン市を歩いてみることにしました。



サイゴンオペラハウス

 ホテルのすぐ近くにあるオペラハウスです。西洋風の美しい建物です。



サイゴン大教会

 19世紀末に作られた赤レンガ造りの教会です。正式名称は聖母マリア教会というのだそうです。


 毎日どこかで事故を見かけます。バイクの女性はサンダル履きで足に怪我をしているようでした。



中央郵便局

 前回来た時も中に入ってみていますが、もう一度入ってみました。現在は観光名所の一つです。



先祖供養

> 道端でお札を燃やしている人がいました。一見して本物のお札ではありません。
 ベトナムでは昔から、祖先を敬う気持ちが強く、あの世に行った祖先がお金に困らないようにと、お札を燃やす習わしがあるのだそうです。
 どの家でも簡単に燃やせるよう、お札に似せた紙束が売られているそうです。



為替レート

 銀行の脇を通ったので後の参考のために写真に収めました。
 これを見ると 1US$ が 108.5円に相当します。現在日本では 1$=102円ですから、円はだいぶ安く見られています。



 サイゴン大聖堂の中に入ってみました。ミサが行われていました。



戦争証跡博物館

 前回来た時は見ていなかったので、入ってみました。
 ベトナム戦争の歴史を実際に使用された戦車やライフル、爆弾などが展示され、また、たくさんの写真で当時の様子が展示されていました。



内部の展示室

 3階建の博物館で、たくさんの人で混雑していました。
 ベトナムでの過去の幾つもの戦争の歴史が展示され、それらの戦争が始まった経緯や、その悲劇、残忍さがたくさん展示されていました。また、復興後の姿も展示されていました。
 枯葉剤の散布により、たくさんの奇形児が生まれましたが、日本で手術した双子のベトチャンや、いろいろな奇形児の姿が展示されていました。
 日本人カメラマンで写真「安全への逃避」でピュリッツアー賞を受賞し、34歳で戦死した故沢田教一の写真や石川文洋氏の写真、著作集などが展示され、その内容が日本語でも説明されていました。
 当時、日本ではべ平連が結成され、その写真も掲げられていました。
 


 サイゴンの南の230㎞の離島に政治犯の監獄所、拷問施設を、ベトナムを支配していたフランスが作り、後にアメリカ軍がそれを引き継ぎ、ベトナム人を拷問、殺害していました。
 その様子が再現されていました。

 左はトラの檻と言われる拷問器具です。
この檻は屋外の砂地に上に置かれ、鉄条網で囲まれており、いろいろなサイズのものが作られていました。2~3人用には 1.8m x 75cm x 40cm で、5~7名用には 1.8m x 75cm x 60cm と極めて狭く、体を曲げることは出来ても、背を立てることは出来ませんでした。
 何時も暑いベトナムでは、直射日光に当たる場所に置かれたら、脱水、日射病になり、死に至るのは必須でしょう。


 ホテルまで歩いて帰りました。大聖堂の前にはバイクに乗ったままでお祈りに参加していました。
 道路にゴミは少なく、デパートには高級品で溢れていました。


 街角のレストランで夕食です。ここでも WIFI が無料でした。
 スマホで試してみたら、パスワードを要求されました。ウエイトレスに聞いたらすぐに教えてくれました。インターネットに無料で接続できました。



ベトナム戦争

 ここで少し、ベトナムの戦争の歴史をまとめてみました。
 フランスがグエン王朝の成立に力を貸し、それを契機にベトナム全土を支配するようになったことはすべに述べましたが、ベトナム民衆の間で、フランスの激しい搾取に対して、独立すべきとの機運が高まってきました。 しかし、一般の民衆の学問レベルは非常に低く、教育制度もなかったために、独立意識の高かった人たちは、まず、自分の勉強から始めようとし、1905年、日露戦争でロシアに勝った日本にあこがれ、たくさんの人達が日本に来て学問を学びはじめました。日本も快くそれを受け入れました。しかし、それを知ったフランスは日本政府にベトナム人の入国を認めないよう働きかけ、日本もフランスとの摩擦を避けるためにフランスの要請を受け入れ、ベトナム人を排除してしまいました。当時の様子は2013年ベトナム公営放送が製作し、昨年末放映のNHK、BSドキュメンタリー、「ベトナム独立の夢を日本に賭けた男」で詳しく紹介されています
 1940年、フランスがナチスドイツに敗れると、日本は大東亜共栄圏成立を掲げ、北部ベトナムに進駐し、さらに翌年にはベトナム南部にも進駐しています。ベトナムを支配していたフランスに対し、日本は特に戦いを起こさず、ベトナム民衆は日本とフランスとの2重支配により、激しい弾圧と掠奪を受けるようになりました。それに対し、独立を目指す人たちは抗日、抗仏の武装蜂起を計画し、独立同盟会(ベトミン)を結成します。
 1945年、日本が無条件降伏すると、1945年8月、ハノイやフエで蜂起が起こり、グエン王朝は完全に崩壊し、150年続いた王政が途絶えました。
 日本敗戦に対し、ポツダム宣言では北部ベトナムを戦勝国の中国が、南部ベトナムを戦勝国のイギリスが日本軍の武装解除を遂行することになりましたが、フランスはイギリスの支援を得て再度南ベトナムに侵略し南ベトナムは再びフランスの支配下に入りました。しかし、この侵攻に対して、南ベトナムの人たちの中に、何とかそれを防止し、フランス軍を追い出そうと思っている人たちがたくさんいました。
 北ベトナムでは1946年、総選挙により、圧倒的多数の支持を得てホーチミン政権が成立します。と同時に、南ベトナムの植民地解放を約束します。
 それに対し、フランスは北ベトナムへも兵を進め、1946年12月、ハノイでも戦闘が開始されました。これが第1次インドシナ戦争の始りです。
 1950年、中国とソ連がベトナム民主共和国を承認し、ベトナムは国として認められましたが、アメリカは南ベトナムに傀儡政権のバオダイを立て、ベトナム国として承認しています。
 フランスはベトミン軍をおびき寄せ、一挙に叩いてしまおうとの作戦を立てディエンベエンフーに大規模な軍事基地を建設しました。
 ホーチミン政権は中国とソ連の支援を受け、徐々にフランス軍を追い詰め、逆にディエンベエンフーを包囲し滑走路を破壊し、その結果、ベトナム軍は1954年3月、そこでの戦いに勝利し、フランス軍は敗退します。この戦いでフランス兵9万5千人とベトナム人130万人が犠牲となりました。
 当時の様子は、2004年7月放送のNHK、BSドキュメンタリー「世界を変えた56日の戦い」に詳しく紹介されています。この放送は昨年末、再放送されています。
 フランスとしては、戦争に勝ち、民衆を弾圧するのが目的ではなく、ベトナムを支配し、搾取によって利益を上げるのが目的でした。もはやそのような時代は去ったと自覚したフランスは戦争から手を引いたのです。
 1954年7月、約9年にわたったインドシナ戦争に、ジュネーブ会議で停戦が合意され、北緯17度線を軍事境界線として定め、ベトナムは国際的にも北と南に分裂しました。
 この協定では、フランスがベトナムとラオス、カンボジアからも撤退し、3国は各々統一選挙を行うことを条件に、3国ともついに独立が成立しました。
 しかし、インドシナ半島の共産化を危惧するアメリカは支援していた南ベトナム政府が選挙で敗れることを恐れてこの協定には調印しませんでした。
 1960年に入るとホーチミン政権は南北統一を目的とする憲法を公布します。
 一方、アメリカは1961年、軍事顧問団を南ベトナムに派遣します。南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は独裁を強化し、政府に反対する仏教徒や学生、農民、都市知識層の反政府運動に激しい弾圧を加えました。しかしそれが却って民衆の怒りを増やし、南ベトナム内に南ベトナム解放民族戦線が設立され、アメリカとジエム政権に対し宣戦布告を発しました。これが第二次インドシナ戦争、すなわちベトナム戦争の始まりでした。
 1964年8月、トンキン湾事件を契機に特別権限を与えられえたジョンソン大統領は、北からの兵士や物資の供給を絶つためアメリカ空軍による北ベトナムの攻撃、いわゆる北爆を開始しました。
 この北爆のため、日本の沖縄県や北は秋田県の三沢基地など、多くのアメリカの軍事基地から、連日爆撃機が飛びだって行きました。それに対し、日本国内では作家小田実が代表となり、べ平連が結成されたりして、反戦運動が活発化してゆきました。これは学生運動の引き金ともなりました。
 1964年11月、アメリカ軍の拠点であったビエンホア空軍基地が解放戦線の攻撃により、多くの飛行機ともども破壊され炎上しました。この事件はアメリカ軍がいかに近代兵器で攻撃しても解放戦線を簡単には抑え込めないことを示しました。
 また、ジェム政府の方針とアメリカの方針が一致せず、何度も傀儡政権を設立しますが、グエン・カオ・キ政権は血の弾圧とも言われる恐怖政治を行い、民衆の心はますます離れて行きました。
 その後もアメリカは本格的に軍隊を南ベトナムに駐留させ、最大で54万にもの兵力が南ベトナムに駐留していました。
 当時のアメリカの様子は、NHK、BSドキュメンタリー、「オリバーストーンが語るアメリカ史第7回ベトナム編」で詳しく紹介されています。
 1968年の旧正月(テト)1月30日、南と北の両軍の戦闘が全土で始まり、ベトナム全土が戦争状態に突入しました。
 アメリカの大規模軍事基地ダナン近くの古都フエは1ヶ月にわたって解放戦線が制圧しています。この戦いで1500名のアメリカ人が戦死し、これ以降、アメリカのベトナム政策が再検討され始めました。
 アメリカ軍は1972年にハノイ大攻撃を行いました。その攻撃で町は大破し、死者は1318名でした。しかし、アメリカが誇ったB52がハノイ周辺で34機も撃墜されています。両方とも、もう収拾がつかない泥沼化に入り込んでしまいました。
 アメリカ軍兵士の中にも戦争の目的に疑問を持つものが現れ、厭戦気分が次第に広がり始めました。
 解放戦線との戦いの農村地帯だけではありませんでした。1965年3月、サイゴンのアメリカ大使館が爆破され、アメリカ人に多くの犠牲者が出ました。
 その後も解放戦線の攻撃が続き、ついに1973年、パリ会議が開かれ、アメリカの撤兵が決まりました。
 しかし、アメリカはなかなか撤兵せず、北ベトナム軍は攻撃を再開し、1975年にメコンデルタ地区をはじめ、各地で攻撃を開始し、南ベトナム政府は自滅状態となり、4月30日、サイゴンが没落し、15年にわたる戦争は終わりました。
 この戦争による死者はベトナム人が約200万人、アメリカ人が5万8千人以上と言われています。
 日米戦争が4年間であったことを考えると、とてつもなく長い戦争でした。
 戦争が終わると、ベトナムと中国の関係が悪化してゆき、ベトナムは主にソ連の支援をうけるようになります。主な理由は現在もそうですが国境問題で、南沙諸島や西南沙諸島の領土問題です。もう一つは華僑への迫害でした。
 共産主義国となったベトナムは1978年、南ベトナムの資本主義的工場運営を禁止し、国営化を実施ます。それに対し、それに反対する華僑や南ベトナム人は大挙して国外脱出を行います。それら華僑への迫害がますます中国の態度を硬化させました。そのため、1979年2月には国境近くで戦闘状態が発生し紛争状態に突入しました。
 1988年、ソ連解体と時を同じくして、ベトナムはドイモイ政策(刷新政策)を取り入れ、西側諸国との関係を改善し、1991年には中国との国交正常化を宣言し、中国との貿易を再開しています。
 また、積極的に外国資本の受け入れ、技術の導入とともに、統制経済を縮小し市場経済を進めています。
 現在、日本との経済的関係は非常に強く、ベトナム内の海外からの投資額の約3割は日本からであり、1988年からの投資累計額は日本が一番となっています。
 ただし、現在の観光客数はガイドさんの話によると中国が1番で2番目が韓国だそうです。



ベトナムの政治

 ベトナムは政治的には社会主義国であることを憲法で定めています。世界的にみても社会主義を標榜している国は、中国、北朝鮮、ラオス、キューバとベトナムのわずか5か国です。
 1976年の建国以来、共産党一党支配が現在も続いており、政府に反対する行動をとると投獄されます。そのため、党員の汚職はすさまじく、党員貴族ともいわれる人が多いようです。
 自由か死かを掲げて、多大の犠牲のもとに勝ち取った独立ですが、表現の自由が限定されているのが実態のようです。これは中国など、社会主義国の特徴でもあるようです。


     

6日目 帰宅

 現地で日本のニュースを見ていましたが、土曜日には25年ぶりの大雪で交通がマヒしているようです。日曜日は、東京都知事の選挙があり、それが話題になっていました。しかし、成田に到着するまで、飛行機の発着陸にはもう問題はありませんでしたが、道路は完全にマヒ状態でした。
 理由は高速道路が不通になっているためでした。我が家は通常、成田から30分の距離なので、1時間もあれば大丈夫だろうと思ったのですが、すべての車が成田と千葉、東京を結ぶ国道51号線に殺到し、ほぼ、マヒ状態です。
 私の車は幸い冬タイヤなので幹線道路を離れ、別の道路を通ったのですがその道路はガラガラでした。
 ただし自宅近くで事故車があり、長い渋滞が続いていました。
 自宅に戻ると庭には30㎝以上もの雪が積もっていました。もう、50年近くここに住んでいますが、このような大雪は初めてでした。






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